a0005366_16175689.jpgデカルト以来の近代哲学の根本問題、「主観と客観の一致=真理」について理解するのに役立つ本。

『国際政治の理論』(ケネス・ウォルツ著)の第1章(15p)にある、「『2人の人間が同じものを見ているということさえ確信をもっていえないし、同じデータを持っているともいえない。彼らは、同じものでも異なる仕方で識別し解釈するであろう』(T.S.クーン)いったいわれわれは見えるものだけを知っているのか、それとも知っているものだけが見えるのか。」という部分に興味があったので、この本はとても役に立った。
(87p、第3章5-事象は「志向的統一」である・・・・・・コギタチオ-コギターツム)

また、『現象学入門』の第4章「現象学の展開」では、ガリレオの測定術の成功からどのような世界像が成立したかが考察されています。(フッサールがガリレオを称して「発見し隠蔽する天才」と言っているのはとても面白い。)この本の最初に書かれている「確実なもの」と「あいまいなもの」をフッサールはどのように捉えていたかを考察する部分です。

フッサールは現在では「あいまいなもの」と考えられている個別具体的な事柄(生活世界)より法則化され「学」として成立しているものの方が価値が高いとされていることに疑問を持ちます。しかし、もともとは生活世界における目的から学が成立したのだから、今では目的と手段が逆転してしまっている・・・完全に主観の立場から話しているわけではないが、戦争論の第2編「戦争の理論」におけるクラウゼヴィッツの考えと似ていなくもない。(『戦争論』:2編5章など)

現象学は、
●主観は自分の外に出て客観との一致を確かめることはできない
●デカルトのように、「神」を持ち出すことによって客観との一致を保証させるのもおかしい
●主観から一切を考え始める以外に道はない

というところから出発するのだという。

この考えはとても強力だと思う。

実際にフッサールの本を読んでみたいとは思いますが・・・難しそうだ。でも、このステップを踏まないとその先の話を全く理解できなくなってしまう・・・
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# by Naotaka_Uzawa | 2010-07-23 16:56 | 哲学・科学

a0005366_19281643.jpgこれは面白い。様々な人が逆張りを一種のステータスのように感じている中、それを痛烈に批判しています。「群集・集団」という言葉に対する私たちの頭の中をかき回してくれる本だと思います。

クラウゼヴィッツの「大衆」に関する見方を読むときにも、いい参考になりそうな部分です。

それにしても、やはり「賭け事」にならない限り真剣な予想というものは無理なのだろうか・・・(笑)
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# by Naotaka_Uzawa | 2010-06-11 19:37 | 日記・読書・映画

クラウゼヴィッツと哲学

戦争を考察したクラウゼヴィッツ。彼の哲学に対するスタンスをメモしておきます。「情報」に人間がどのように対処するか、その人間性を知るにもいい部分です。

「悟性は、明晰・確実を求めるが、精神は不確実なものに魅力を感じる。哲学的な思索は、自分が他人のように見えてしまうものであり、慣れ親しんだものから見捨てられてしまったように感じるものだ。そういうとき人間は、論理的必然から離れ可能性の世界に行こうとする。その世界は偶然が支配し、幸運が転がり込んでくるかもしれない世界だからだ。戦争の理論は、このような人間性を無視してはならない。」(1編1章22)
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# by Naotaka_Uzawa | 2010-06-04 18:42 | クラウゼヴィッツ:戦争論読解

戦争における情報を論じる際、書物では簡単に原則を挙げ説明することができるようです。しかし、クラウゼヴィッツは、計画から実行に移る間に入手する情報によって戦争が非常に厄介なものになると言います。


この章で一番重要なのは、正しい判断をするには精神の均衡を保たなければならないという部分です。それには自分の確信に自信を持ち、状況の中で希望を見いだせる部分を見るようにすることだと書かれています。


1編3章では、予想や行動の根拠となる情報の4分の3は霧の中に包まれていて分からないため、理性によって状況の正しい認識を持とうとすること(1編3章-戦争の不確実な性質に対処するのに必要な精神)が必要と書かれています。この努力はこの章の前提となっているのは言うまでもありません。

ここでの情報とは敵国、敵軍のあらゆる事柄をいい、自国・自軍の想定と行動の基礎となるもの

しかし、情報は変化が早く確実なものではないため、予想や行動の基礎があっという間に崩れてしまうとクラウゼヴィッツは言います。




なぜなら、情報は、相互に矛盾したものが多く、さらにより多くが間違っており、大部分が不確実なものだ。そこで物事と人間に関する知識、常識から判断の基準を持たなければならない。そして結局は見込みに基づいて判断しなければならない(1編1章20,21,22)

●不確実性・・・第1編第1章10,18,19、第1編第3章
●どんな戦争になるかの見込みについて・・・第8編第3章


(相互矛盾)
●混乱の中、上記のような情報が入り乱れたとしても、これを批判的に分析することができるなら、まだマシな状態だ。
●最悪なのは、誤った情報の多くが共鳴しあい、一気に決断に向かってしまうことだ。このような場合、その決断を支持した人は後で愚か者として扱われる。


(誤報と人間に関する知識)
大抵の情報は間違っている、人間の恐怖心が誤りを助長する。人間は悪いことを信じやすく、実際より大げさに捉えてしまう。間違った情報や大げさな情報は、原因がはっきりしないまま何度も押し寄せる。指揮官は確信をもって、事柄の良い面を見るようにし、精神の均衡を保ち正しい判断ができるようにしなければならない。


感覚は複雑に組み立てられた思考より強烈な印象を残す。指揮官は事態が予想と違うのを見て躊躇し、計画に疑問を持つものだ。特に他人の思惑に影響されやすい人の疑惑は強烈なものになる。指揮官は自分の確信を捨てず、錯覚を斥けなければならない。


計画と実行との間には大きな断絶があり、大きな困難がある。
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# by Naotaka_Uzawa | 2010-06-03 23:37 | クラウゼヴィッツ:戦争論読解

政治哲学

これはすごい!!!


<18:30~24:10>

ハーバード白熱教室(wikipedia)


1.個人的なリスク
「哲学は私たちを慣れしたんだものから引き離す。新しい情報をもたらすことによってではなく、新しい物の見方を喚起することによって引き離すのだ。しかし、ここにもリスクが有る。慣れ親しんだものが見慣れないものに変わってしまえば、それは2度と同じものにはなり得ない。自己認識とは純真さを失うようなものだ。不安を感じるだろうが私たちは皆そんな思いを経験し、探求を続けてきた。この試みを難しく、しかし面白くしているのは道徳や政治哲学は物語であり、その物語がどこに連れていってくれるかは分からないが、それが自分についての物語であることは分かっている。」


ギリシアの哲学者で、それに気づいて大声で泣いた人はエンペドクレスだったかな・・・エンペドクレスは、もともとはギリシアの伝統に深く根付いた人だったという。それがギリシアの伝統を対象に据え内心では嘲っていた(あるいはそこに至ってしまうことに気付いていた)ピタゴラスの主観に触れた瞬間、エンペドクレスはそれまでギリシアの伝統から祝福されている自分から引き離されてしまったのだと言う。


これは、キリスト教などの文書化され知的に見えるものに憧れを持ち、アニミズム的な宗教を皮肉る知識人に初めて触れた純真な人のようなものだろう。これは今でもよく見ることができる。例えば習俗を守って生きてきた人々を取材し、再び訪問する番組が放送される。再び訪問すると文明的ではないとして服を着せられ(Tシャツ)、それまでの文化を放棄した集団になっていたという内容だ。その人々を見ると、確実に目の輝きを失っているようにも見える。


江戸から明治の初期においても、この対立は非常に深刻なものだった。武士は抵抗を始め、西南戦争などが起きている。しかし、日本のこの問題に対処する方法は、私たち自身の表現で言えば「和洋折衷」というもの。ただ、敗戦後(特に冷戦終結後)はまさに地崩れ的な崩壊を目にしているような気がする。


哲学は伝統的なものを表現すべきなのか、それとも伝統的なものを対象として扱うべきなのか・・・「理性の不安」を批判的に扱う哲学も、そういういえばあった。


2.政治的なリスク
確かに、クラウゼヴィッツを読んで考えているというのは、日本では大きなリスクだ。「悪い市民」として扱われる(かもしれない)。でも続けよう、「ビジネス・スクール」には行かない!(と、いう気持ちで・・・)(笑)


非常に判断が難しい例がどんどん出てきます。映像を見ながら1つ1つ考えてみるといいかもしれません。


一方、日本の首相が公にこの議論を始めて、悩んでいるとしたら・・・アメリカや中国、世界の多くの国は大いにつけこんでくるだろう・・・日本における正義・公正の議論は、実際の政治家に求めるより、情報を伝えるマスコミに求められるべきかもしれません。海外の政府が流す情報を垂れ流すのではなく、それを否定的に伝える情報を同時に伝えたり、「単なる聞き伝えの情報です」と明示すること。敗戦の反省とは主権に関する事実を伝える際に政府の失敗を隠すことに加担していたことであり、決して事実を伝えないことによって平和の雰囲気を作り出すことではないことなど精神的なあり方を要求するべきかもしれませんね。


根本的な反省が、反省を叫ぶ番組の内容とは裏腹に何もなされていないように感じるからです。


個人的には、普遍化と強制がどのような関係なのかとても気になります。
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# by Naotaka_Uzawa | 2010-05-31 01:00 | 哲学・科学