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 今回は少し寄り道して、8編5章です。

 この章では、国運が衰退していく小国がどのような戦争の目標を持つべきかが考察されている。注意点は、戦争の目標が制約されている場合の考察では敵国と自国の戦力バランスを考慮して攻撃・防御を決定するわけではないという部分だ。

 将来が見通せる場合には国運の悪化している小国、見通せない場合でも大国と利害が衝突している小国が想定されている。現在の日本をこの立場にあると想定して読んでみるのもいいはずだ。

 攻撃か防御かを決定するのは戦力のバランスではなく将来に対する評価であり、将来が見通せる場合はチャンスが巡ってくるか、見通せない場合は政治的目的の評価が判断の分かれ道となっている。

 国運が悪化していく国家の前途はまさに多難だ。フリードリッヒ大王(3編6章)は国の滅亡一歩手前まで追い込まれたわけだし、古代ではマケドニアに追い込まれていたアテネにおいてデモステネスが同盟結成までは行ったもののカイロネイアの戦いで敗れている。これは8編7章における話だが、「制約された目標」における攻撃、つまり「敵国土の部分的占領」には多くの困難があるというのがクラウゼヴィッツの評価だと思う(8編7章,7編4章,7編5章,7編-勝利の最高点について)。そういった意味でそれを乗り切ったフリードリッヒ大王に対するクラウゼヴィッツの評価は非常に高いといえるだろう。

 8編の戦争目標の考察の大枠を示している点でこの5章は有益だ。




■「戦力のバランス」が攻撃・防御の選択基準にならない理由について
 この8編5章における「戦力のバランス」の扱い方はなかなか分かりづらい。読んでいて微妙な感覚になる人も多いのではないだろうか?実は1編2章においても同じ内容が登場する。ここでは上の表も使いながら自分なりの理解を書いておきたい。

(表から)
 攻撃か防御かの判断の流れを示した上の表において、まず現れるのは物理的・精神的優位がどちらにあるかの評価だ。しかし、自国の立場は優位ではないと判断した場合でも、積極的精神・冒険を実行する性向が強ければ敵を完全に倒そうとする戦争に発展する可能性がある。つまり小国においてもこの種の戦争を引き起こす可能性がある。

(概念上の戦争の前提から)
再び、概念上の戦争の前提からいくつか取り上げてみよう。

(2)戦闘力、能力など互いの様々な条件を同じにする (1編2章)
(3)両者とも戦争の完全性(=敵の抵抗力の完全な破壊)を追い求め、能力もある (1編1章2,6節,2編5章→7節で否定)
(4)相手の持つ抵抗力をしっかりと把握できる (1編1章5節→10,18節,1編2章は現実の戦争、8編5章)

条件を少し変えてみよう。(4)はそのまま固定し、(2)と(3)の条件を変更する。このとき、明白な力の差があり精神的な力でも穴埋めが出来ないならば概念上は戦争など選択しないだろう。しかし現実には明白な差があり不利なのに戦争を選択し、さらに攻撃という闘争形式を選択する場合がある(1編2章を参考に)。よって戦力のバランスが攻撃・防御の選択基準の核心ではない、ということになるだろう。
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# by Naotaka_Uzawa | 2010-09-03 22:45 | クラウゼヴィッツ:戦争論読解

「現実の戦争」の2つの方向性(PDF)(→『戦争論』におけるヒントになりそうな表現を拾ってみました)

 『戦争論』では、概念上の戦争現実の戦争の区別をしっかりとつけることが大切だ。ただ、付け加えておきたいのは読み進めるにあたって現実の戦争をさらに2つに分けて読んでいくと理解しやすいと思われる。


(1)概念上の戦争に激しさが近づいていく「現実の戦争」
(2)概念上の戦争の激しさからは程遠い「現実の戦争」

この2つだ。


 ここで迷いやすいのは、ナポレオンによる戦争をどのように扱うかだ。クラウゼヴィッツは8編2章においてナポレオンが行った戦争を「概念上の戦争」が完全に現れたものだとしている。その一方、それはやはり現実の戦争だとしている。これについては、1編1章6節・1編2章において概念はあくまで概念であり現実ではないと書いていることから、やはりナポレオンによる戦争も現実の戦争だとみなすべきだろう。


 ここでもう一度「概念上の戦争」がどのように出てきたかを見てみよう。それはクラウゼヴィッツが実際に経験したナポレオン戦争やフリードリヒ大王による戦争など戦史から読み取った戦争の本質だった。


(1)概念上の戦争に激しさが近づいていく「現実の戦争」の拡張
 仮に読み取った概念はそのまま固定しておくことにする。それはとにかく極限の世界だった。一方、現実の戦争はクラウゼヴィッツの死後も行われており現実の戦争の「経験」はその後も続いているわけだ。つまり、クラウゼヴィッツの時代の経験ではナポレオン戦争が最も激しいものだったにせよ、私たちはその後も様々な戦争が発生しているのを知っているわけだから、『戦争論』を読む際は、意識的に「現実の戦争」における激しさの幅をクラウゼヴィッツの認識より広げて読んでいくのが良いのだと思う。


 「現実の戦争」はあくまで経験から知られるものであり、戦史から読み取るものだ(2編2章37節,2編6章)。クラウゼヴィッツの著作で考える場合、以後の戦争を『戦争論』の考察対象からはずすのはおかしいだろう。


(2)概念上の戦争の激しさからは程遠い「現実の戦争」
 一方、概念上の戦争の激しさからは程遠い「現実の戦争」についてはクラウゼヴィッツが認識していたもので現在も十分読み進めていけるはずだ。
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# by Naotaka_Uzawa | 2010-08-28 16:19 | クラウゼヴィッツ:戦争論読解

 今日は、バートランド・ラッセルの『西洋哲学史』からの連想。

 1編1章6節、8編6章Bにおいてクラウゼヴィッツは「概念」から現実世界の予想をすることについて非常に厳しく批判している。「それは常に極限状態に備えようという話になり、無駄な力を使ってしまう。こんな馬鹿げた話はないだろう。実際には、相手を探りある程度の蓋然性をもとにして自分の行動を決定することになる」、という分析だ。


 概念から将来を予想することについてなぜクラウゼヴィッツはこれほどの警告をしているのだろうか?なにかこの当時の風潮にそういう流れがあったのだろうか。


 とても疑問だった。


 それについて、『西洋哲学史』にそのような流れがあったのかもしれないと思える話があった。哲学の話ではよく出てくる決定論の話だ。


 「全ての真である命題の概念を検討し次のことがわかった。必然的・偶然的どちらにせよ、過去・現在・未来のものであれ、すべての述語は主語の概念の中に含まれている。ここから次の結論が出てくる。実体の中には、これから起こる全ての痕跡がある。」(『西洋哲学史』、11章「ライプニッツの形而上学に関する書簡」、587pを参考に)


 この話は、自然や物質だけではなく、人もその範囲に入っている議論だ。


 つまり、戦争(主語)に含まれている様々な要素(述語)を全て列挙できれば、将来を予想できる。しかも、「概念上の戦争」における必然的な戦争の推移だけでなく、偶然が入り込む「現実の戦争」についても可能だ、ということになるだろう。


 ライプニッツは、1646年から1716年までの人だ。後には弟子のヴォルフ(1679-1754)がその予定調和説を受け継いでいる。


ヴォルフが活躍していた時代、彼に嫉妬した人がフリードリヒ・ウィルヘルム1世に予定調和説を歪めて伝えたという説もあるそうだ。いわく、「兵隊が脱走しても宿命がそうさせたので、兵を罰することは不当である」。ヴォルフはヴィルヘルム1世に命令で教授職を追われた。(Wikipedia-クリスティアン・ヴォルフ


 プロイセンの軍の中ではこの出来事による記憶のようなものがあったのかもしれない。


 決定論というのも戦争という具体的なものと合わせ突き詰めて考えるとなかなか容認しがたいものだ。原因と結果もここまで極限まで押し進めると変なものに見えてくるものだ。ただ、こういう考え方が微分・積分を生み出した方面に目を向けると無益ではないと思える。
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# by Naotaka_Uzawa | 2010-08-27 22:41 | クラウゼヴィッツ:戦争論読解

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 前回までは、戦争論の至る所で登場する概念上の戦争についてまとめておいた。「概念上の戦争」にはいくつかの前提があり、それは必要に応じて否定され「現実の戦争」が考察されていく。今回は前提のうち(1)、(5)、(7)を再び取り上げてみよう。


(1)抽象的なもの同士が戦う (1編1章7節→同節,2編5章で否定)
(5)戦争前の状態や様々な関係を無視し、戦争を突然起こることと考える (1編1章6節→7節で否定)
(7)今戦っている戦争が終結した後、どうなるかを考えない (1編1章6節→9節、8編4章で否定,2編5章のモスクワ侵攻の考察を参照)


 当然のことながら、「現実の戦争」では抽象的なもの同士が戦うわけではない。また、戦争前の様々な事柄を考慮しなければならず、戦後自分たちが置かれる状況も考慮しなければならないものだ。


 図は戦争論の考察対象を大まかに示すために1編1章を参考に作成したものだ。「敵対している利害関係」を処理する方法は「政治的行動・行為」である。利害関係が続く間は政治的交渉は続くものと考えなければならないだろう。戦争を選択した場合は政治的交渉とは言わないのが慣例だが、それはどうだろうか?ペンや言葉を使おうとも、兵器を使おうとも同じ利害関係を処理していると考えなければならない。つまり、戦争という手段で政治的交渉を続けていると考えなければならない。戦争も外交も利害関係をどのように処理するかという政治的目的を達成するための同じ手段なのだ。(1編1章24節、8編6章B)


 クラウゼヴィッツは、戦争を宣戦布告から講和条約締結までというきっちりとした範囲に限定しているようにも見える(1編2章、8編6章B)。しかし、戦争論における現実の戦争には2つの異なる方向性が想定されているということに注意して欲しい。2つの異なる方向性とは「概念上の戦争」に激しさが近づくものと遠ざかっていくものの2つなのだが、注目して欲しいのは遠ざかっていくものの例として、武装中立、交渉支援のための威嚇、有利な状態を得るための試み(3編16章)も戦争の範囲の中に含められている部分だ。つまり、理論が非常に分かりづらくなるのを認めながらも、宣戦布告から講和締結という形の戦争以外も「現実の戦争」とされているということだ(8編6章A)。


 武装中立を選択する場合、交戦している両者に領域を使用させてはならないため、戦っている両者が領域を侵犯した場合は両者を軍事的手段によって排除しなければならない。また、交渉支援のための威嚇、有利な状態を得るための試みでは戦争と外交が同時に行われている場合も想定されていると考えるべきだろう。


 つまり、「敵対している利害関係」が存在している限り、広い意味での戦争は既に発生していると捉えなければならず、ペン・言葉と兵器のどちらが目立っているかは利害関係の重要度やどのくらいの期間続くのかによって戦争には多くの形があるのと同じように様々だということだ。(1編1章3,25-28節)


 上記のように、「現実の戦争」は利害関係を中心とした非常に幅広い状態を指すものであった。武装中立や交渉支援のための威嚇、相手を牽制するための合同軍事演習のようなものも「現実の戦争」に含まれ、そこでは外交も同時に行われていることが想定されている場合もあることを見てきた。


 さて、上記のような利害関係やそれを処理する政治的目的、軍事的な計画などを戦争を考える場合どのように位置付ければいいだろうか?それについて戦争論では「敵対している利害関係」を引き起こした国際関係や国家内部の社会状態を戦闘が前提とされている様々な軍事行動にとって既に与えられた条件として考えると書かれている(1編1章3節、1編2章)。


 そして国内における政治勢力の関係・状況、国際関係(あるいは集団同士の関係)、敵対している利害関係から生まれる動機などから戦争がどのような性質のものになるのか、つまり概念上の戦争に近づくものなのかそれとも遠ざかるものなのか、つかんでおく必要がある(1編1章27、8編3章A)。


 「与えられた条件と考える」という部分で1つ注意点がある。それはその条件自体も変化していくというものだ。


 利害関係をどう処理するか決める当初の政治的目的が最も重要だが、利害関係というものはある程度続くものであり、その間に国際関係や国家内部の社会状態が変化するため、一旦戦争が始まっても変化する可能性がある。その変化をどう処理するかは政治の重要な役目だ。利害関係をどう処理するか決定する政治が軍事行動を外交と同じようにコントロールしている。(1編1章23)




次回は、「現実の戦争」の2つの方向性についてまとめてみます。

●軍事行動には、戦闘力の養成、維持、使用が含まれます。闘争を前提とした全ての行動です。(1編2章、2編1章)
→ただし、戦争論の考察対象の中心は「戦闘力の使用」とそれに深い影響を与える「戦闘力の維持」になります。

●外交官の行動方法を考察しているものではない。(外交官と戦争の関係は3編17章参照)

●言葉は、使い方を変えれば即座にニュアンスの変化を何となく把握できるものだが、軍事行動ではあまり感じることができないだろう。目の前で見れたとしたら、そこでは昨日までと同じように物資や人が移動していることしか観察できないはずだ。
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# by Naotaka_Uzawa | 2010-08-21 01:32 | クラウゼヴィッツ:戦争論読解

以上のような前提・定義・方向性から、「概念上の戦争」の性質を考えてみよう。敵味方、それぞれの行動は必ず相手に影響を与え連動している。この相互に影響を与え合うことが、戦争の手段、目標とどのように関わっているかが問題だ。

【1.戦争の手段から考える】(1編1章3)
 戦争の手段は物理的な力であり、これを使い暴力を行使することだった。概念上の戦争ではそれ以前の国家間の関係や状態を無視し、すでに戦争が始まっているという前提がある。そのため暴力の行使以外の手段は失われている。戦闘は1度きりであり、お互い抵抗力を完全に奪う能力があるため負ければ完全に無防備状態となる。そのため片方が暴力を行使すればもう片方も暴力で対抗するしかないわけだ。この連鎖は際限もなく続く。戦争の規模・激しさに限度がなくどんどんエスカレートしていくことになる。今戦っている戦争が終結した後、どうなるかを考えることなどしないからだ。


【2.戦争の目標から考える】(1編1章4)
 概念上の戦争の目標は、敵の抵抗力を完全に破壊することだった。そうすれば自分たちの意志を相手に押し付けようとするとき相手は抵抗できないため言うことを聞くしかない。戦争はすでに始まっている。自分たちが敵の抵抗力を完全に破壊しなければ、こちらが負けてしまう。決戦のチャンスは1度しかないからだ。敵も同じように考えている。戦争の規模・激しさに限度がなくどんどんエスカレートしていくことになる。今戦っている戦争が終結した後、どうなるかを考えることなどしないからだ。


【3.敵の抵抗力の測定から考える】(1編1章5)
 今まで戦争の手段・目標と敵味方の行動の連動の関係を見てきた。順番からすると「敵に自分たちの意志を押し付ける」という政治的な目的について考えなければならないように見える。しかし、「概念上の戦争」では、敵の抵抗力を完全に破壊してしまえば敵に自分たちの意志を押し付けることができる。つまり、政治的な目的は戦争が始まった時点で考えなくてもいいことになる。

 それよりも【2】で見た抵抗力についてもう少し詳しく見たほうが「概念上の戦争」を考える上で有効だろう。相手の持つ抵抗力をしっかりと把握できることが前提とされていた。そのため、お互いに敵より優位に立とうと力を発揮する。戦争の規模・激しさに限度がなくどんどんエスカレートしていくことになる。
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# by Naotaka_Uzawa | 2010-08-13 23:39 | クラウゼヴィッツ:戦争論読解