カテゴリ:クラウゼヴィッツ:戦争論読解( 22 )

この章は大きく3つに分かれている。

(1)政治的目的を達成するための戦争の目標について
(2)それを達成するための戦争の手段は何か
(3)敵の戦闘力の撃滅の重要度の評価



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■(1)戦争の目標について

 戦争が政治的目的の正当な手段となる条件を考える。この時、適切な戦争の目標は何かを考えればいいだろう。そうなると、この戦争の目標は様々な政治的目的や状況によって異なるためひとまとめにして決められるものではないということに気づくはずだ。


 だが、無限にあるとしても考察できないというものでもない。戦争論では、まず概念上の戦争と現実の戦争の区分がはっきりと示されている(8編2章)。そして、現実の戦争も概念に近づくものとそれからは程遠いもの、この2つの方向性の違いを戦争前にしっかり把握する必要性が強調されている(8編3章A)。


ここでは8編5章の記事で利用した表(上図)を見ながら話を進めたい。





●「概念上の戦争」における戦争の目標

 それは、敵の抵抗力を完全に破壊することだった。「概念上の戦争」は様々な仮定をもとに考え出されたものであり、現実ではない。どちらも確実にこの目標に向かって行動し、戦争は止まることなく極限状態まで突き進む。それがいかに厳しいものであっても、戦争が無制限なものになり極限状態まで進行することが分かっている。つまり事態がどう進展するか確実に読める。そのため、概念上の戦争では政治が事態の方向性を決める必要などなくなってしまう(1編1章23節)。





●概念に非常に接近する「現実の戦争」における戦争の目標

  図では、物理的・精神的にとても優位な立場にあるか、積極的精神・冒険を実行できる性向を有している場合にあたる(8編5章)。1編では動機・緊張の強い場合。8編3章Aでは「概念上の戦争」に注目した場合の戦争の見通しや各戦闘の結果をどう見るかという部分にあたるだろう。それは、途中の成果には意味がなく、最終的な(主要な)決戦における失敗が今までの全ての成果をダメにしてしまうような戦争だった。



 「概念上の戦争」で想定されている両者は抽象的な存在だ。しかし、「現実の戦争」では条件がより具体的になってくる。敵の抵抗力をより具体的にし、その中でも非常に普遍的な要素を3つ導入してみよう。それは戦闘力・国土・敵の意志である。概念に接近する「現実の戦争」では、この3つの要素に対しどのように行動しなければならないだろうか。



1. 戦闘力(軍事力)・・・敵が闘争を続けられない状態にする
2. 国土・・・占領(新しい戦闘力の形勢を防ぐため)
3. 敵の意志・・・敵(同盟国を含む)に講和条約を締結させ屈服させる。ただし、「現実の戦争」の2つの方向性のうち、概念から遠ざかっていく戦争では講和の可能性がない場合も考えられる。「戦争における3つの主要な傾向(知性、感情、蓋然性・偶然性)」のうち政治の領域である「知性の挫折」という表現で講和条約で意味していた範囲を広げるべきかもしれない(1編1章28節)。そもそもその集団の知性が打ち出している政治的目的が有効なら、それはその集団の感情に支持されたものだ(1編1章11節)。また、概念から遠ざかっていくような戦争では、小さな政治的目的を捨てることも簡単だろう(1編1章11節)。この場合、政治的目的というよりも、「アイデアの実験・検証・試み」というような表現の方がしっくりくるものかもしれない。



【進行パターン】(様々なパターンがあり確定的に決められるものではない)
●1→2→3[基本的な流れ]
●(1→2→1→2・・・)→3[実際には、戦闘力の壊滅と敵国土の占領は交互に進むものだ。]
●2→2→2→・・・(敵国土の大部分か全部の占領)→3?

 1812年のナポレオンによるロシア遠征のように敵がどんどん国土の奥深くへ撤退するような場合、大部分を占領しても敵の戦闘力を壊滅していない場合がある。ナポレオンには1の要素が欠けていたため、ロシアの「知性、政治」を屈服できなかった訳だ。





●抵抗力を完全に奪えない戦争における戦争の目標

 上図でみたように、物理的・精神的に大きな優位になく、敵を完全に倒そうという積極的精神もない場合は戦争の目標が制約されたものになる。クラウゼヴィッツは抵抗力を完全に奪えない戦争を攻撃的な方向と防御的な方向の2つに分けて考えている。1編2章で列挙されている戦争の様々な目標はどちらかというと攻撃的な方向(積極的意図)に重点が置かれているようにみえるが防御的な方向(消極的意図)の考察部分にも同じように注目したほうが戦争論を把握しやすい。



 下図は先程の図に2つの視点を追加したものだ。政治的目的は概念上の戦争に近づくものであっても、遠ざかるものであっても戦争を貫いている。しかし、概念からの距離という戦争内部の事情は、政治の表面化の程度に影響を与える(1編1章11,23-26)。政治と戦争内部の事情との間には密接な関連がある。

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 さて、抵抗力を完全に奪えない戦争(「制約された目標」の場合)における「戦争の目標」を考察する部分にきた。


 「概念上の戦争」では、相手の抵抗力をしっかりと把握できることが仮定されていた。そのため、明白な力の差があり精神的な力でも穴埋めが出来ないならば概念上は戦争など選択しないだろう。しかし現実には明白な差があり不利なのに戦争を選択し、さらに攻撃という闘争形式を選択する場合がある。つまり、戦争を選択するかどうか、攻撃・防御どちらを選択するかは戦力のバランスではなく、将来に対する評価により決定される(8編5章、上図参照)。


 ということは、将来に対する評価を左右させることによって敵を講和(あるいは政治的目的の挫折)に誘導することも可能なはずだ。この将来に対する評価は大きく2つに分けられる。勝算と犠牲の2つだ。


1.勝算を悪化させる(主に戦争の内部事情を考慮した場合)

発生する事態には何通りものパターンがあるだろう。蓋然性の高いパターンは何か。どのパターンが将来発生すると敵に「勝てそうにない」と判断させることができるか。その具体的方法についての考察。8編5章をもとにした上の図ではどのパターンが発生する蓋然性が高いか判断できる場合だ。

 下の表のうち、政治的関係を変化させる方法に対する評価はとても高いものとなっている。

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2.政治的目的と払うべき犠牲とのバランスの悪化(犠牲=数量+持続時間)

8編5章をもとにした上の図では、どのパターンが発生する蓋然性が高いか判断できない場合にあたる。この場合、政治的目的をどう評価するかが重要だ。現実の戦争では将来を推測できない場合が多いだろう。講和に向かう動機としてはこちらのほうが一般的なものだ。1編2章で考察されている戦争の目標は、あくまで一般論としてという但し書きが付けられている。そしてその目標はどちらかというと攻撃的な方向(積極的意図)のものが多い。しかし、この部分で戦争論でも重要な防御の考察が行われる。ポイントは闘争の持続時間と防御の関係だ。

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純粋な抵抗でも敵の政治的目的を挫折させるために、戦闘力を使用することが含まれている。




次回は戦争の手段に関してです。
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by Naotaka_Uzawa | 2010-09-12 14:49 | クラウゼヴィッツ:戦争論読解

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 今回は少し寄り道して、8編5章です。

 この章では、国運が衰退していく小国がどのような戦争の目標を持つべきかが考察されている。注意点は、戦争の目標が制約されている場合の考察では敵国と自国の戦力バランスを考慮して攻撃・防御を決定するわけではないという部分だ。

 将来が見通せる場合には国運の悪化している小国、見通せない場合でも大国と利害が衝突している小国が想定されている。現在の日本をこの立場にあると想定して読んでみるのもいいはずだ。

 攻撃か防御かを決定するのは戦力のバランスではなく将来に対する評価であり、将来が見通せる場合はチャンスが巡ってくるか、見通せない場合は政治的目的の評価が判断の分かれ道となっている。

 国運が悪化していく国家の前途はまさに多難だ。フリードリッヒ大王(3編6章)は国の滅亡一歩手前まで追い込まれたわけだし、古代ではマケドニアに追い込まれていたアテネにおいてデモステネスが同盟結成までは行ったもののカイロネイアの戦いで敗れている。これは8編7章における話だが、「制約された目標」における攻撃、つまり「敵国土の部分的占領」には多くの困難があるというのがクラウゼヴィッツの評価だと思う(8編7章,7編4章,7編5章,7編-勝利の最高点について)。そういった意味でそれを乗り切ったフリードリッヒ大王に対するクラウゼヴィッツの評価は非常に高いといえるだろう。

 8編の戦争目標の考察の大枠を示している点でこの5章は有益だ。




■「戦力のバランス」が攻撃・防御の選択基準にならない理由について
 この8編5章における「戦力のバランス」の扱い方はなかなか分かりづらい。読んでいて微妙な感覚になる人も多いのではないだろうか?実は1編2章においても同じ内容が登場する。ここでは上の表も使いながら自分なりの理解を書いておきたい。

(表から)
 攻撃か防御かの判断の流れを示した上の表において、まず現れるのは物理的・精神的優位がどちらにあるかの評価だ。しかし、自国の立場は優位ではないと判断した場合でも、積極的精神・冒険を実行する性向が強ければ敵を完全に倒そうとする戦争に発展する可能性がある。つまり小国においてもこの種の戦争を引き起こす可能性がある。

(概念上の戦争の前提から)
再び、概念上の戦争の前提からいくつか取り上げてみよう。

(2)戦闘力、能力など互いの様々な条件を同じにする (1編2章)
(3)両者とも戦争の完全性(=敵の抵抗力の完全な破壊)を追い求め、能力もある (1編1章2,6節,2編5章→7節で否定)
(4)相手の持つ抵抗力をしっかりと把握できる (1編1章5節→10,18節,1編2章は現実の戦争、8編5章)

条件を少し変えてみよう。(4)はそのまま固定し、(2)と(3)の条件を変更する。このとき、明白な力の差があり精神的な力でも穴埋めが出来ないならば概念上は戦争など選択しないだろう。しかし現実には明白な差があり不利なのに戦争を選択し、さらに攻撃という闘争形式を選択する場合がある(1編2章を参考に)。よって戦力のバランスが攻撃・防御の選択基準の核心ではない、ということになるだろう。
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by Naotaka_Uzawa | 2010-09-03 22:45 | クラウゼヴィッツ:戦争論読解

「現実の戦争」の2つの方向性(PDF)(→『戦争論』におけるヒントになりそうな表現を拾ってみました)

 『戦争論』では、概念上の戦争現実の戦争の区別をしっかりとつけることが大切だ。ただ、付け加えておきたいのは読み進めるにあたって現実の戦争をさらに2つに分けて読んでいくと理解しやすいと思われる。


(1)概念上の戦争に激しさが近づいていく「現実の戦争」
(2)概念上の戦争の激しさからは程遠い「現実の戦争」

この2つだ。


 ここで迷いやすいのは、ナポレオンによる戦争をどのように扱うかだ。クラウゼヴィッツは8編2章においてナポレオンが行った戦争を「概念上の戦争」が完全に現れたものだとしている。その一方、それはやはり現実の戦争だとしている。これについては、1編1章6節・1編2章において概念はあくまで概念であり現実ではないと書いていることから、やはりナポレオンによる戦争も現実の戦争だとみなすべきだろう。


 ここでもう一度「概念上の戦争」がどのように出てきたかを見てみよう。それはクラウゼヴィッツが実際に経験したナポレオン戦争やフリードリヒ大王による戦争など戦史から読み取った戦争の本質だった。


(1)概念上の戦争に激しさが近づいていく「現実の戦争」の拡張
 仮に読み取った概念はそのまま固定しておくことにする。それはとにかく極限の世界だった。一方、現実の戦争はクラウゼヴィッツの死後も行われており現実の戦争の「経験」はその後も続いているわけだ。つまり、クラウゼヴィッツの時代の経験ではナポレオン戦争が最も激しいものだったにせよ、私たちはその後も様々な戦争が発生しているのを知っているわけだから、『戦争論』を読む際は、意識的に「現実の戦争」における激しさの幅をクラウゼヴィッツの認識より広げて読んでいくのが良いのだと思う。


 「現実の戦争」はあくまで経験から知られるものであり、戦史から読み取るものだ(2編2章37節,2編6章)。クラウゼヴィッツの著作で考える場合、以後の戦争を『戦争論』の考察対象からはずすのはおかしいだろう。


(2)概念上の戦争の激しさからは程遠い「現実の戦争」
 一方、概念上の戦争の激しさからは程遠い「現実の戦争」についてはクラウゼヴィッツが認識していたもので現在も十分読み進めていけるはずだ。
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by Naotaka_Uzawa | 2010-08-28 16:19 | クラウゼヴィッツ:戦争論読解

 今日は、バートランド・ラッセルの『西洋哲学史』からの連想。

 1編1章6節、8編6章Bにおいてクラウゼヴィッツは「概念」から現実世界の予想をすることについて非常に厳しく批判している。「それは常に極限状態に備えようという話になり、無駄な力を使ってしまう。こんな馬鹿げた話はないだろう。実際には、相手を探りある程度の蓋然性をもとにして自分の行動を決定することになる」、という分析だ。


 概念から将来を予想することについてなぜクラウゼヴィッツはこれほどの警告をしているのだろうか?なにかこの当時の風潮にそういう流れがあったのだろうか。


 とても疑問だった。


 それについて、『西洋哲学史』にそのような流れがあったのかもしれないと思える話があった。哲学の話ではよく出てくる決定論の話だ。


 「全ての真である命題の概念を検討し次のことがわかった。必然的・偶然的どちらにせよ、過去・現在・未来のものであれ、すべての述語は主語の概念の中に含まれている。ここから次の結論が出てくる。実体の中には、これから起こる全ての痕跡がある。」(『西洋哲学史』、11章「ライプニッツの形而上学に関する書簡」、587pを参考に)


 この話は、自然や物質だけではなく、人もその範囲に入っている議論だ。


 つまり、戦争(主語)に含まれている様々な要素(述語)を全て列挙できれば、将来を予想できる。しかも、「概念上の戦争」における必然的な戦争の推移だけでなく、偶然が入り込む「現実の戦争」についても可能だ、ということになるだろう。


 ライプニッツは、1646年から1716年までの人だ。後には弟子のヴォルフ(1679-1754)がその予定調和説を受け継いでいる。


ヴォルフが活躍していた時代、彼に嫉妬した人がフリードリヒ・ウィルヘルム1世に予定調和説を歪めて伝えたという説もあるそうだ。いわく、「兵隊が脱走しても宿命がそうさせたので、兵を罰することは不当である」。ヴォルフはヴィルヘルム1世に命令で教授職を追われた。(Wikipedia-クリスティアン・ヴォルフ


 プロイセンの軍の中ではこの出来事による記憶のようなものがあったのかもしれない。


 決定論というのも戦争という具体的なものと合わせ突き詰めて考えるとなかなか容認しがたいものだ。原因と結果もここまで極限まで押し進めると変なものに見えてくるものだ。ただ、こういう考え方が微分・積分を生み出した方面に目を向けると無益ではないと思える。
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by Naotaka_Uzawa | 2010-08-27 22:41 | クラウゼヴィッツ:戦争論読解

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 前回までは、戦争論の至る所で登場する概念上の戦争についてまとめておいた。「概念上の戦争」にはいくつかの前提があり、それは必要に応じて否定され「現実の戦争」が考察されていく。今回は前提のうち(1)、(5)、(7)を再び取り上げてみよう。


(1)抽象的なもの同士が戦う (1編1章7節→同節,2編5章で否定)
(5)戦争前の状態や様々な関係を無視し、戦争を突然起こることと考える (1編1章6節→7節で否定)
(7)今戦っている戦争が終結した後、どうなるかを考えない (1編1章6節→9節、8編4章で否定,2編5章のモスクワ侵攻の考察を参照)


 当然のことながら、「現実の戦争」では抽象的なもの同士が戦うわけではない。また、戦争前の様々な事柄を考慮しなければならず、戦後自分たちが置かれる状況も考慮しなければならないものだ。


 図は戦争論の考察対象を大まかに示すために1編1章を参考に作成したものだ。「敵対している利害関係」を処理する方法は「政治的行動・行為」である。利害関係が続く間は政治的交渉は続くものと考えなければならないだろう。戦争を選択した場合は政治的交渉とは言わないのが慣例だが、それはどうだろうか?ペンや言葉を使おうとも、兵器を使おうとも同じ利害関係を処理していると考えなければならない。つまり、戦争という手段で政治的交渉を続けていると考えなければならない。戦争も外交も利害関係をどのように処理するかという政治的目的を達成するための同じ手段なのだ。(1編1章24節、8編6章B)


 クラウゼヴィッツは、戦争を宣戦布告から講和条約締結までというきっちりとした範囲に限定しているようにも見える(1編2章、8編6章B)。しかし、戦争論における現実の戦争には2つの異なる方向性が想定されているということに注意して欲しい。2つの異なる方向性とは「概念上の戦争」に激しさが近づくものと遠ざかっていくものの2つなのだが、注目して欲しいのは遠ざかっていくものの例として、武装中立、交渉支援のための威嚇、有利な状態を得るための試み(3編16章)も戦争の範囲の中に含められている部分だ。つまり、理論が非常に分かりづらくなるのを認めながらも、宣戦布告から講和締結という形の戦争以外も「現実の戦争」とされているということだ(8編6章A)。


 武装中立を選択する場合、交戦している両者に領域を使用させてはならないため、戦っている両者が領域を侵犯した場合は両者を軍事的手段によって排除しなければならない。また、交渉支援のための威嚇、有利な状態を得るための試みでは戦争と外交が同時に行われている場合も想定されていると考えるべきだろう。


 つまり、「敵対している利害関係」が存在している限り、広い意味での戦争は既に発生していると捉えなければならず、ペン・言葉と兵器のどちらが目立っているかは利害関係の重要度やどのくらいの期間続くのかによって戦争には多くの形があるのと同じように様々だということだ。(1編1章3,25-28節)


 上記のように、「現実の戦争」は利害関係を中心とした非常に幅広い状態を指すものであった。武装中立や交渉支援のための威嚇、相手を牽制するための合同軍事演習のようなものも「現実の戦争」に含まれ、そこでは外交も同時に行われていることが想定されている場合もあることを見てきた。


 さて、上記のような利害関係やそれを処理する政治的目的、軍事的な計画などを戦争を考える場合どのように位置付ければいいだろうか?それについて戦争論では「敵対している利害関係」を引き起こした国際関係や国家内部の社会状態を戦闘が前提とされている様々な軍事行動にとって既に与えられた条件として考えると書かれている(1編1章3節、1編2章)。


 そして国内における政治勢力の関係・状況、国際関係(あるいは集団同士の関係)、敵対している利害関係から生まれる動機などから戦争がどのような性質のものになるのか、つまり概念上の戦争に近づくものなのかそれとも遠ざかるものなのか、つかんでおく必要がある(1編1章27、8編3章A)。


 「与えられた条件と考える」という部分で1つ注意点がある。それはその条件自体も変化していくというものだ。


 利害関係をどう処理するか決める当初の政治的目的が最も重要だが、利害関係というものはある程度続くものであり、その間に国際関係や国家内部の社会状態が変化するため、一旦戦争が始まっても変化する可能性がある。その変化をどう処理するかは政治の重要な役目だ。利害関係をどう処理するか決定する政治が軍事行動を外交と同じようにコントロールしている。(1編1章23)




次回は、「現実の戦争」の2つの方向性についてまとめてみます。

●軍事行動には、戦闘力の養成、維持、使用が含まれます。闘争を前提とした全ての行動です。(1編2章、2編1章)
→ただし、戦争論の考察対象の中心は「戦闘力の使用」とそれに深い影響を与える「戦闘力の維持」になります。

●外交官の行動方法を考察しているものではない。(外交官と戦争の関係は3編17章参照)

●言葉は、使い方を変えれば即座にニュアンスの変化を何となく把握できるものだが、軍事行動ではあまり感じることができないだろう。目の前で見れたとしたら、そこでは昨日までと同じように物資や人が移動していることしか観察できないはずだ。
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by Naotaka_Uzawa | 2010-08-21 01:32 | クラウゼヴィッツ:戦争論読解

以上のような前提・定義・方向性から、「概念上の戦争」の性質を考えてみよう。敵味方、それぞれの行動は必ず相手に影響を与え連動している。この相互に影響を与え合うことが、戦争の手段、目標とどのように関わっているかが問題だ。

【1.戦争の手段から考える】(1編1章3)
 戦争の手段は物理的な力であり、これを使い暴力を行使することだった。概念上の戦争ではそれ以前の国家間の関係や状態を無視し、すでに戦争が始まっているという前提がある。そのため暴力の行使以外の手段は失われている。戦闘は1度きりであり、お互い抵抗力を完全に奪う能力があるため負ければ完全に無防備状態となる。そのため片方が暴力を行使すればもう片方も暴力で対抗するしかないわけだ。この連鎖は際限もなく続く。戦争の規模・激しさに限度がなくどんどんエスカレートしていくことになる。今戦っている戦争が終結した後、どうなるかを考えることなどしないからだ。


【2.戦争の目標から考える】(1編1章4)
 概念上の戦争の目標は、敵の抵抗力を完全に破壊することだった。そうすれば自分たちの意志を相手に押し付けようとするとき相手は抵抗できないため言うことを聞くしかない。戦争はすでに始まっている。自分たちが敵の抵抗力を完全に破壊しなければ、こちらが負けてしまう。決戦のチャンスは1度しかないからだ。敵も同じように考えている。戦争の規模・激しさに限度がなくどんどんエスカレートしていくことになる。今戦っている戦争が終結した後、どうなるかを考えることなどしないからだ。


【3.敵の抵抗力の測定から考える】(1編1章5)
 今まで戦争の手段・目標と敵味方の行動の連動の関係を見てきた。順番からすると「敵に自分たちの意志を押し付ける」という政治的な目的について考えなければならないように見える。しかし、「概念上の戦争」では、敵の抵抗力を完全に破壊してしまえば敵に自分たちの意志を押し付けることができる。つまり、政治的な目的は戦争が始まった時点で考えなくてもいいことになる。

 それよりも【2】で見た抵抗力についてもう少し詳しく見たほうが「概念上の戦争」を考える上で有効だろう。相手の持つ抵抗力をしっかりと把握できることが前提とされていた。そのため、お互いに敵より優位に立とうと力を発揮する。戦争の規模・激しさに限度がなくどんどんエスカレートしていくことになる。
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by Naotaka_Uzawa | 2010-08-13 23:39 | クラウゼヴィッツ:戦争論読解

 現実の戦争には様々な形があり、その政治的目的、それを達成するための戦争の目標も様々だ。しかし、戦争の特性(概念上の戦争)をある前提から考えたときは以下のような形になるだろう。絶対性や完全性という言葉は以下のような戦争の方向性を表している。

●戦争とは、敵に自分たちの意志を押し付けるために暴力を使うこと。
●政治的目的・・・敵に自分たちの意志を押し付けること。
●戦争の目標・・・目的達成のため敵の抵抗力を完全に破壊すること。
●目標を達成するための手段・・・物理的な力(武器・兵器)を使うこと。
(1編1章2節)

この政治的目的、戦争の目標、手段についての考察は1編2章につながっていく。




「概念上の戦争」を考えているのに、そこに至る考察では現実によく見られることから導いているというような腑に落ちない感覚に囚われた時は、様々な現実の個別具体的な現象のなかに本質や意味を感じ取るような思考をするときを思い出すといいかもしれない。

前回取り上げた概念上の戦争の前提は、現実の戦争を考える際に次々と否定されていく。つまり、概念は概念であって現実ではない(1編1章6節、1編2章)。しかし、この概念、本質(ただしこの言葉は、「概念上の戦争」を表す場合もあるし「現実の戦争」を表す場合もあるので注意が必要。)、「概念上の戦争」は実際に戦っている人からすれば、戦争がどんなものかわざわざ言葉で表すまでもなく感じ取るものだった。(2編5章)

『戦争論』では、この概念について注意点が2つある。

(1)戦争の特性は現実の戦争から読み取ったものだったが、これから起こる戦争に対し無理に適用してはいけない
 →無理に適用しようとする考え方に対しては「概念とは単なる言葉遊びであり、これが現実にあるという考えは馬鹿げている」というような形で強い批判が加えられる。

(2)これから戦うことになる戦争を甘く見て戦争の特性を十分に考慮しないまま、戦争の計画を立案したり実行すべきではない
 →戦争の特質が示している厳しさを無視した考え方に対しては、「戦争は危険なものであり、敵がこちらの全滅を計画していたらどうする、十分根拠があるならいいが・・・」という形で強い批判が加えられる。また、初めの政治的目的が変化する可能性もこの警告の根拠となるだろう。これは私たち日本人にとっては痛烈だ。反省の形が65年過ぎる間にかなり歪んでしまったものの、毎年これを反省しなければならないからだ。

この2点は読んでいると、内容が矛盾しているのではないかと感じる部分なのだが、よく読むとクラウゼヴィッツが意図していることが分かってくるはずだ。

この2点のバランスを忘れずに読んでいけば、戦争の特性として読み取ったものをどう扱えばいいのか理解を深めていけるのではないだろうか?特に8編2章、8編3章Aなどは、この2つの視点を中心に論じられている部分だ。また、「この概念を背景としていつも念頭に浮かべておくこと」という部分に注目する必要があるだろう(8編2章、8編6章B)。
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by Naotaka_Uzawa | 2010-08-12 23:33 | クラウゼヴィッツ:戦争論読解

 概念上の戦争には、いくつかの前提があるように思われる。ここではその前提を列挙しておく。これらの条件は両軍ともあてはまることとする。現実の戦争を考える場合、これらの条件が否定されていくことになる。

●(1)抽象的なもの同士が戦う (1編1章7節→同節,2編5章で否定)
(2)戦闘力、能力など互いの様々な条件を同じにする (1編2章)
(3)両者とも戦争の完全性(結果について確実なもの)を追い求め、能力もある (1編1章2,6節,2編5章→7節で否定)
(4)相手の持つ抵抗力をしっかりと把握できる (1編1章5節→10,18節は現実の戦争)
●(5)戦争前の状態や様々な関係を無視し、戦争を突然起こることと考える (1編1章6節→7節で否定)
(6)決戦は1回のみ、それにすべての力を使い切る (1編1章6節,3編12章→1編1章8節、3編12章で否定)
●(7)今戦っている戦争が終結した後、どうなるかを考えない (1編1章6節→9節、8編4章で否定,2編5章のモスクワ侵攻の考察を参照)
(8)闘争形式を攻撃のみとする (1編1章12,13,14節→16,17節で防御の考察が始まる)
(9)闘争自体を考え、空間・時間・人間を考慮しない(3編12章)




●(5)(6)(7)はクラウゼヴィッツが箇条書きにして明示しているもの。まだ、他にもいろいろとありそうだ。
●概念上の戦争(言葉)から現実の戦争につなげる思考方法については、3編16章、8編2章にもある。特に8編2章に出てくるナポレオン戦争と「概念上の戦争」の分かりづらい位置づけを整理すれば戦争論の理解もすっきりしたものになるはずだと考えています。
→ただしうまくつなげられるかについては微妙だ
●これらの前提から論理的に戦争の極限の姿が出てくるのかどうか。実は不安がある。今のところはクラウゼヴィッツはこれらの前提から「概念上の戦争」を導き出しているという表面上の理解にとどまっている。
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by Naotaka_Uzawa | 2010-08-10 22:06 | クラウゼヴィッツ:戦争論読解

 過去に発生した数々の戦争は個別具体的なものだが、それらには戦争の特性が含まれているはずだ。つまり、現実の戦争はこの特性が様々に変化し、偶然的な要素が入り込んだものだと考えられる(8編2章)。ところで、この本質をつかむには才能が必要である。また、戦争を実際に行なっている者はこの特性を感じ取ればよいだけであるが、特性を言葉で表す場合には明確な言葉を使うよう努力する必要がある。(2編5章)

 ここでは戦争の特性として考察される戦争の形を「概念上の戦争」、過去に発生しかつ将来発生するかもしれない戦争を「現実の戦争」と名付けよう。

 「概念上の戦争」の規定にあたっては注意点がある。今、現実の戦争は戦争の特性が様々に変化したものと言ったが、「概念上の戦争」の激しさに関し、過去に発生した数々の戦争の中間を取るわけにはいかないということだ。

 戦争の特性の最も核心的な要素、それは「戦争は危険なものだ」ということだ。そして将来行われるだろう戦争が過去に発生した戦争より穏やかなものになる保証はどこにもない。

 つまり概念上の戦争では、その激しさにおいて極限の姿を描き出さなければならないことになる。




このような形になるだろうか。

「将来発生するかもしれない戦争」をどうみるかについては「第3編第1章において利用されること」という手記を参照。可能性のある戦闘を現実、実在するものと考える。
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by Naotaka_Uzawa | 2010-08-06 19:58 | クラウゼヴィッツ:戦争論読解

クラウゼヴィッツと哲学

戦争を考察したクラウゼヴィッツ。彼の哲学に対するスタンスをメモしておきます。「情報」に人間がどのように対処するか、その人間性を知るにもいい部分です。

「悟性は、明晰・確実を求めるが、精神は不確実なものに魅力を感じる。哲学的な思索は、自分が他人のように見えてしまうものであり、慣れ親しんだものから見捨てられてしまったように感じるものだ。そういうとき人間は、論理的必然から離れ可能性の世界に行こうとする。その世界は偶然が支配し、幸運が転がり込んでくるかもしれない世界だからだ。戦争の理論は、このような人間性を無視してはならない。」(1編1章22)
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by Naotaka_Uzawa | 2010-06-04 18:42 | クラウゼヴィッツ:戦争論読解