Naotaka Uzawa
2021-02-19T11:59:10+09:00
Naotaka_Uzawa
For Future Reference代表。編集者、ストーリー分析など。執筆に挑戦する方とご一緒に活動しています。ブログでは仕事とは少し離れて大学時代から関心のあった国際情勢や哲学、関連書籍について発信しています。
Excite Blog
ペロポンネソス軍の第1回アッティカ侵入(第2巻18ー22)
http://uj12304567.exblog.jp/240843789/
2021-02-17T22:00:00+09:00
2021-02-18T01:04:25+09:00
2021-02-18T01:04:25+09:00
Naotaka_Uzawa
ツキジデス:『歴史』読解
ギリシア喜劇。
スパルタがアッティカ(アテネの領域)に侵入したペロポネソス戦争の開戦後、スパルタ王アルキダモスはペリクレスを挑発するためアテネの目と鼻の先にあるアカルナイ区を荒らすのだった。
アルキダモスは、アテナイ人が最盛期にあり若者も多く、さらに前代未聞の軍備を整えているので迎撃に乗り出すだろう……、出てこなければいずれ首都を攻略することもできるはずだと考えていた。
さらに、最大の重装歩兵を供給しているアカルナイ区を荒らし、財産を奪えば、以前ほど防衛に熱心にならないと考えたのである。財産を奪われた以上、守るものはもうないのだから…。
一方、アテナイ人は首都へは近づかないだろうという淡い期待を抱いていたが、アカルナイ区に侵入されるやパニックに陥った。ペルシア戦争から随分と時間が経ち(もう60年ぐらいは経っていた)、戦闘経験や眼前に敵が現れ自国領土が荒らされるのを見たことがなかったからだ。
すべての人(特に若者)は、出撃すべきだと考え、アテナイ人は興奮状態に陥った。彼らの不満は、出撃を抑え込んでいるペリクレスに向けられる。
ペリクレスは、アテナイの最大の武器である艦船で戦うことを決めていた。だから、民会も集会も招集しなかった。招集すればたちまち出撃が決議され、スパルタに敗退し、首都が攻略されるからだ。
ここで、スパルタ王アルキダモスに財産を荒らされたアカルナイ人、酒呑みのディカイオポリスと主戦派のラマコスが登場する。はてさて、2人の顛末はいかに・・・。
当時の現実の状況に、この喜劇作品を投げ込むと、どうも現状認識がズレているのではと感じるようになる……。例えば、「あれ? ペリクレスは出撃を抑えようとしてたよね……」。
上空の高いところと低いところで風が逆向きに吹いていて、一番下で低いところの風を受けている感じだ。この作品だと、高いところ=ペリクレス、低いところ=ラマコス、一番低いところ=ディカイオポリスだろうか。
とするなら、アテネでの上演は、高いところと一番低いところの風が同じ向きだったから好意的に受け入れられた・・・かな。このズレは、いつでも起こっているのでは? ラマコスはペリクレスにとって厄介な存在だっただろう(注:ラマコスは架空のキャラだけど)アカルナイ区の人々のスパルタに対する復讐心はアテネの戦略を破綻させる恐れがあったに違いない。
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シーパワー国家の戦争がなぜ長期化するのか?
http://uj12304567.exblog.jp/240840197/
2021-02-14T20:00:00+09:00
2021-02-19T11:59:10+09:00
2021-02-15T15:44:41+09:00
Naotaka_Uzawa
国際情勢
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/63869?page=7
==以下、引用==
「今バイデン政権が最大関心を払っているのは、台湾海峡での中国の動きであり、台湾有事の可能性だ」
「米国が尖閣諸島防衛をしきりに持ち出すのも、同諸島海域が実は中国海軍が台湾に攻め入る絶好のルートになっているからでもある」
「米軍が尖閣防衛出動する時は、当然、自衛隊との『日米統合機動展開部隊』での出動になる」
【考察】
1.シーパワーの特徴について
シー・パワーは、「なんで、そんなとこを?」と驚いてしまうようなところから攻撃します。たとえばアフリカにいる中国軍だったり、ナポレオンとの戦争でイギリスがスペインから入ったりするように。
敵が自国領土に侵入しても、このやり方は変わりません。通常、侵攻された土地へ全てを集中させるよう指導者は求められますが、あくまで防戦に努め、集団を可能な限り落ち着かせたうえでアフリカやスペインでの戦争を継続するのです。
おおざっぱにまとめると
==シー・パワーの特徴==
・「ヒット・エンド・ラン」
⇒日本の列島線に相手が集中していれば、アフリカを攻め、アフリカに向かえば、日本側から攻勢をかけるような形
⇒日米同盟の存在は、この原則から見ると、尖閣に全てを集中させようとする激昂した世論、野党などの圧力を緩和させる効果がある。
・「ランドパワーの戦争は、結局、領土の占領支配。一方、シー・パワーの戦争目的は、通商路の管制」
⇒あっと驚くような遠隔地での戦闘は通商路が長く伸びている理由による。
・「戦争目的の違いにより、どこまでも噛み合うことがなく、30年以上、場合によっては100年というような単位で続く長期戦となる」
⇒ペロポネソス戦争、冷戦、英仏100年戦争、13世紀から16世紀まで続いた中国沿岸への襲撃など
⇒噛み合っているとしたらどちらかが原則を無視しているということになりそうだ。2.シーパワー国家の戦争がなぜ長期化するのか?に記載したコーベットの思想を慎重に検討すること。
・「戦争は、シー・パワーが消滅するまで続く」
⇒ランドバワーは、人が土地に住む限り消えない
⇒シー・パワーが衰弱しても、通商路の管制という行動原理は消えない
・「シー・パワー同士は共存を嫌い、どちらかが艦船を没収し吸収する」
⇒インド海軍の扱いは今後半世紀、アメリカにとって悩みとなる⇒米中連携の可能性は? 冷戦終結後、30年経ってもアメリカにはその思考が残っている。同様に、インド洋におけるアメリカの独占が消えても、アメリカ人の思考には「インド洋の独占」が残る。中国周辺の海域についても同様。日本人の生存という観点から、十分注意する必要がある。
・シーパワーには「領土を放棄して、集団ごと移住できる」という前提が隠れている
⇒参考:『テミストクレス―古代ギリシア天才政治家の発想と行動』(仲手川良雄・著、中公叢書)
⇒確かに実行は現在では不可能です(国の戦略としての技術革新は、この原則を再度実行可能にする方向性をまずは認識することから始めるべきだと思う。ただし、「ありえないことをあえて考え、ぶつけてみる」という前置きを忘れずに)。決して発言されることもありません。ですが、頭の中から消してはいけない前提です。
ただ、空、宇宙、サイバー空間まで入れるとどうなるのか……。役に立つかは分かりませんが、コツコツ勉強してみます。
2.シーパワー国家の戦争がなぜ長期化するのか?
https://www.learningmilitaryscience.com/.../%E3%82%B3%E3...
「コーベットはシーパワーの効果が大陸を支配する国家に対して及ぶことが歴史上あまりなかったことを踏まえ、シーパワーの優越があったとしても、その運用に問題があれば、戦争が長期化する恐れがあることに注意を促した。」
詳しい人からすれば、いまさら……という議論だと思いますが、ニュースを読んでいくにあたって重要な視点です。
記事中に出てくるクラウゼヴィッツの『戦争論』は骨の折れる書籍です。コツは内容そのものをマスターしようとするよりも、ワードのアウトライン表示を使い、文章の構造がどうなっているのか読み解く作業を織り交ぜることです。その作業が、読み終わるのかわからない長大な文章に対する不安を和らげてくれるでしょう。(そんな感じで読んでいます)
ちなみにコーベットが歴史のジャンルに踏み入るきっかけとなったキャプテン・ドレイクの戦略思想は、日本とイギリスの類似性に期待をかける人々にとっては研究に値する内容になっているようです。
「島国の国境は、地図上に引かれた線ではなく、敵の港湾とその背後にある(今では、空港・ミサイル基地・サイバー空間において相手に影響を与える始点なども含まれるでしょう)」
法的な国境線ではなく、力によって変動するダイナミックな勢力圏を読み解いたり、対策を考え投票行動に活かそうとするなら、ネットや本で探して読んでみる価値がありそうです。
ただし、読んだからと言って自信をもちすぎるのは禁物……だろうなぁ。中国もロシアもこの考え方は研究しつくしていて、今はそのはるか向こうの次元でアメリカと闘っているはずです。
とはいっても、人間のやることです。学者になろうともくろまない限り、大雑把に捉えるだけでいいでしょう。
3.長期化を許容すべきか否か?
『……フロム・ザ・シー:21世紀に向けて海軍の準備を整える』(1992年、米海軍)は、アメリカおよび同盟軍が戦うことなく制海を利用できるということを宣言していた。「大規模戦闘に備える」ことをやめてしまったのだ。気が付けば歴史の復活に奮闘……、今や中国、ロシア…大国間競争の形で、アメリカ海軍や海兵隊を翻弄している。(『海洋戦略入門』ジェームズ・ホームズ)
コーベットの思想の活用方法が、
①大規模戦闘に備える形で活用されている場合、
②米海軍に余裕があって自由に大陸に上陸できた前提で活用されている場合
の2つを注意深く分けなければならないだろう。もちろん、②ではなく①を重視。
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暦(1)
http://uj12304567.exblog.jp/240275667/
2020-04-30T09:41:00+09:00
2020-04-30T09:45:21+09:00
2020-04-30T09:45:21+09:00
Naotaka_Uzawa
日記・読書・映画
とはいえ、これだけ時間ができると自然に挑戦ができるようになります。添付の動画は、最も身近な天体「月」。月齢6.4だそうです。月が完全に欠けたときが月齢0、上弦が月齢7なので、あともう少しで「上弦」ということですね。ちなみに満月が月齢15、下弦が月齢22、月齢29でひと回りです。
他のサイトで検索すると今日は旧暦4/8だとか。
わたしは他の人に比べ、かなり面倒くさがりなので暦の下に書かれているいろいろな情報を遮断しがちですが、世界中の様々な暦にも興味の幅を広げたいですね。
関連記事:
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この10年間について
http://uj12304567.exblog.jp/240252935/
2020-04-18T22:48:00+09:00
2020-04-18T22:48:30+09:00
2020-04-18T22:48:30+09:00
Naotaka_Uzawa
日記・読書・映画
働いてはいましたよ
ですが、2010年1月〜2011年3月までは、クラウゼヴィッツの『戦争論』ばかり読んでいました。膨大な量だし、読み込んでも次から次へと頭から消えていく……、食らいついて頑張ったのはとてもいい経験になりました。
2011年3月からは人生初の出版社へ入社。(すぐに東日本大震災がありましたが…)4年弱、カスタマーサポートとしてお客さんの相談を受けていました。そして、2015年からは編集へ。ブログをお読みいただいている方は、すでにお分かりかもしれませんが、何せ頭が堅いので「面白い」という視点というのがかなり苦手かもしれません。
編集のいいところは、連絡をとってみたい人にアタックできるところです。確かに企画を通せない場合、涙を飲むのですが、それに怯んでいては何も始まりません。美術書、小説、自己啓発……などを編集しました。マキャベリやツキジデス、クラウゼヴィッツとは随分とかけ離れた分野でしたが、それぞれに素晴らしい出会いがありました。
(もちろん恋愛物にクラウゼヴィッツを載せてみろなんて無茶ぶりはしてません!)
途中、1年ふらふらと(働いてはいましたよ・・・)して、もう一度、別の出版社に入って今に至っています。20代の頃の仕事内容が全く違う転職に比べると、やっていることは変わらないので比較的安定(低位安定ね)していたのではないかと思います。
ボディボードはちょっと長めの休止、その代わり幼い頃から興味のあった星空をどでかい天体望遠鏡をつかって星雲・星団探しなどをしたりしています。
今は伝染病が来てしまいましたので、在宅ですべてをこなしています。ご想像のとおり私にとっては最高の環境です。あれもやってみたいな、これもやってみたいなと頭の中が結構楽しくなってきているのです。
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ブログ再開のお知らせ
http://uj12304567.exblog.jp/240247445/
2020-04-16T08:50:00+09:00
2020-04-16T08:50:05+09:00
2020-04-16T08:50:05+09:00
Naotaka_Uzawa
お知らせ
『言葉はなぜ生まれたのか』(岡ノ谷一夫 著)
http://uj12304567.exblog.jp/11598516/
2010-11-21T21:49:00+09:00
2010-11-21T21:55:09+09:00
2010-11-21T21:49:20+09:00
Naotaka_Uzawa
日記・読書・映画
「デグーの鳴き声はいつもその状態に対応している。人間は今いる状態ではない発声ができる。(鳥に襲われるデグーとオオカミ少年を例に)」(37p)
「脳科学の実験とコンピューターシュミレーションを研究の両輪にできれば、『言葉の起源』にぐっと近づくことができるはずです。」(119p)
どうなっていくのか期待。]]>
『カント入門』(石川文康著)
http://uj12304567.exblog.jp/11557308/
2010-11-12T18:03:00+09:00
2010-11-13T17:13:36+09:00
2010-11-12T18:03:16+09:00
Naotaka_Uzawa
哲学・科学
『純粋理性批判』を理解するコツはアンチノミー論の理解からか・・・
「後の理性批判に通じる思考法の萌芽・・・すなわち、対立する2つの立場に直面した場合、真理はおおむね中間にあるという「確からしさ(蓋然性)の論理」・・・これは今日の確率論の先駆をなすものである。それはまたなによりも、アンチノミーの思考法の先駆でもある。」(50p、1.証明不可能な根本真理―伝統的合理主義のまがり角)
「戦争はさまざまな関係を合計した平均値から起こるのではなく、その時々の支配的な要因によって起こる。厳密な論理的推論は不可能。理論はこれらを認めなければならない。しかし、概念上の戦争を普遍的な指標として使うことは理論の義務だ。そうすれば概念を見失わず、戦争において発生する事柄を理論との関連で把握し、可能・必要ならいつでも接近できるはずだ」(クラウゼヴィッツ『戦争論』、8編2章)
『戦争論』の1編3章との関連で、この本のなかに「勇気」や「沈着」という言葉が出てくる(140p)部分には興味を持ちました。「自由をめぐる第3アンチノミー」と「偶然性・蓋然性のなかにおける最高司令官の自由な精神活動」(1編1章28)という部分には関連があるような・・・]]>
カント『純粋理性批判』入門 (黒崎政男 著)
http://uj12304567.exblog.jp/11420261/
2010-10-13T23:59:00+09:00
2011-09-15T21:30:28+09:00
2010-10-13T23:59:55+09:00
Naotaka_Uzawa
哲学・科学
この本があってとても助かった!
「『純粋理性批判』は、「個々の認識が真である」ことを確定しようとしたのでは決してない。そうではなくて、我々の認識が「客観的妥当性を有していると主張しうるための根拠はなにか」ということを追求した書物なのである。客観的妥当性を主張している認識は当然のことながら、真であることも偽であることもありえるのである。(180p、)
カテゴリーは、意識的に使用する道具なのではなく・・・「世界」が我々に現れてきているということ自体、カテゴリーがすでに働いている結果なのである。(178p)」
感性とも悟性ともはっきりしない未分化の第1版における「構想力」。この「感性と悟性の共通の根」というものに非常に興味が湧いてきました。
『人間知性新論』(ライプニッツ 著)
その前に遡ったところを今読んでいます。返却期限までに終わらなそうです。延長を申し込むか・・・]]>
ある民族の話
http://uj12304567.exblog.jp/11332528/
2010-09-25T20:11:53+09:00
2010-09-25T20:11:55+09:00
2010-09-25T20:11:55+09:00
Naotaka_Uzawa
日記・読書・映画
ロレンス:「その通りです。」
ファイサル:「やむを得ない。トルコには最新式の大砲がある。しかし不安だ。心配でならん。イギリスは荒れた土地にも貪欲だ。アラビアも欲しいらしい。」
ロレンス:「拒否すべきです。」
ファイサル:「君はイギリス人だ。忠誠心がないのか?」
ロレンス:「祖国にも他にも忠実です。」
ファイサル:「イギリスにもアラビアにも?可能かな?君も砂漠を愛するイギリス人の1人だな。ダウティ、スタンホープ、ゴードン将軍。アラブは砂漠を愛さん。水や緑を愛する。砂漠には何もない。必要なものはだ・・・君たちはアラブを軽く見てるのか?無力で愚かな民族にすぎない。貪欲で野蛮で残酷だと。知っているかね、ロンドンが村落だった昔、コルドバには街灯があった。」
ロレンス:「はい、偉大な民族です。」
ファイサル:「9世紀前の話だ。」
ロレンス:「今や再興の時です。」
ファイサル:「父はそのためにトルコに宣戦した。私の父だ。イギリス人ではない。だが父は老齢だ。そして私は消えたコルドバの花園を求める。そのためには戦わねばならん。再興にはイギリス人が必要なのだ。あるいは・・・人力の及ばぬ物がいる。奇跡だ。」]]>
第1編第2章ー政治的目的とその達成手段(1)
http://uj12304567.exblog.jp/11269177/
2010-09-12T14:49:00+09:00
2010-09-17T20:20:44+09:00
2010-09-12T14:48:59+09:00
Naotaka_Uzawa
クラウゼヴィッツ:戦争論読解
(1)政治的目的を達成するための戦争の目標について
(2)それを達成するための戦争の手段は何か
(3)敵の戦闘力の撃滅の重要度の評価
■(1)戦争の目標について
戦争が政治的目的の正当な手段となる条件を考える。この時、適切な戦争の目標は何かを考えればいいだろう。そうなると、この戦争の目標は様々な政治的目的や状況によって異なるためひとまとめにして決められるものではないということに気づくはずだ。
だが、無限にあるとしても考察できないというものでもない。戦争論では、まず概念上の戦争と現実の戦争の区分がはっきりと示されている(8編2章)。そして、現実の戦争も概念に近づくものとそれからは程遠いもの、この2つの方向性の違いを戦争前にしっかり把握する必要性が強調されている(8編3章A)。
ここでは8編5章の記事で利用した表(上図)を見ながら話を進めたい。
●「概念上の戦争」における戦争の目標
それは、敵の抵抗力を完全に破壊することだった。「概念上の戦争」は様々な仮定をもとに考え出されたものであり、現実ではない。どちらも確実にこの目標に向かって行動し、戦争は止まることなく極限状態まで突き進む。それがいかに厳しいものであっても、戦争が無制限なものになり極限状態まで進行することが分かっている。つまり事態がどう進展するか確実に読める。そのため、概念上の戦争では政治が事態の方向性を決める必要などなくなってしまう(1編1章23節)。
●概念に非常に接近する「現実の戦争」における戦争の目標
図では、物理的・精神的にとても優位な立場にあるか、積極的精神・冒険を実行できる性向を有している場合にあたる(8編5章)。1編では動機・緊張の強い場合。8編3章Aでは「概念上の戦争」に注目した場合の戦争の見通しや各戦闘の結果をどう見るかという部分にあたるだろう。それは、途中の成果には意味がなく、最終的な(主要な)決戦における失敗が今までの全ての成果をダメにしてしまうような戦争だった。
「概念上の戦争」で想定されている両者は抽象的な存在だ。しかし、「現実の戦争」では条件がより具体的になってくる。敵の抵抗力をより具体的にし、その中でも非常に普遍的な要素を3つ導入してみよう。それは戦闘力・国土・敵の意志である。概念に接近する「現実の戦争」では、この3つの要素に対しどのように行動しなければならないだろうか。
●1. 戦闘力(軍事力)・・・敵が闘争を続けられない状態にする
●2. 国土・・・占領(新しい戦闘力の形勢を防ぐため)
●3. 敵の意志・・・敵(同盟国を含む)に講和条約を締結させ屈服させる。ただし、「現実の戦争」の2つの方向性のうち、概念から遠ざかっていく戦争では講和の可能性がない場合も考えられる。「戦争における3つの主要な傾向(知性、感情、蓋然性・偶然性)」のうち政治の領域である「知性の挫折」という表現で講和条約で意味していた範囲を広げるべきかもしれない(1編1章28節)。そもそもその集団の知性が打ち出している政治的目的が有効なら、それはその集団の感情に支持されたものだ(1編1章11節)。また、概念から遠ざかっていくような戦争では、小さな政治的目的を捨てることも簡単だろう(1編1章11節)。この場合、政治的目的というよりも、「アイデアの実験・検証・試み」というような表現の方がしっくりくるものかもしれない。
【進行パターン】(様々なパターンがあり確定的に決められるものではない)
●1→2→3[基本的な流れ]
●(1→2→1→2・・・)→3[実際には、戦闘力の壊滅と敵国土の占領は交互に進むものだ。]
●2→2→2→・・・(敵国土の大部分か全部の占領)→3?
1812年のナポレオンによるロシア遠征のように敵がどんどん国土の奥深くへ撤退するような場合、大部分を占領しても敵の戦闘力を壊滅していない場合がある。ナポレオンには1の要素が欠けていたため、ロシアの「知性、政治」を屈服できなかった訳だ。
●抵抗力を完全に奪えない戦争における戦争の目標
上図でみたように、物理的・精神的に大きな優位になく、敵を完全に倒そうという積極的精神もない場合は戦争の目標が制約されたものになる。クラウゼヴィッツは抵抗力を完全に奪えない戦争を攻撃的な方向と防御的な方向の2つに分けて考えている。1編2章で列挙されている戦争の様々な目標はどちらかというと攻撃的な方向(積極的意図)に重点が置かれているようにみえるが防御的な方向(消極的意図)の考察部分にも同じように注目したほうが戦争論を把握しやすい。
下図は先程の図に2つの視点を追加したものだ。政治的目的は概念上の戦争に近づくものであっても、遠ざかるものであっても戦争を貫いている。しかし、概念からの距離という戦争内部の事情は、政治の表面化の程度に影響を与える(1編1章11,23-26)。政治と戦争内部の事情との間には密接な関連がある。
さて、抵抗力を完全に奪えない戦争(「制約された目標」の場合)における「戦争の目標」を考察する部分にきた。
「概念上の戦争」では、相手の抵抗力をしっかりと把握できることが仮定されていた。そのため、明白な力の差があり精神的な力でも穴埋めが出来ないならば概念上は戦争など選択しないだろう。しかし現実には明白な差があり不利なのに戦争を選択し、さらに攻撃という闘争形式を選択する場合がある。つまり、戦争を選択するかどうか、攻撃・防御どちらを選択するかは戦力のバランスではなく、将来に対する評価により決定される(8編5章、上図参照)。
ということは、将来に対する評価を左右させることによって敵を講和(あるいは政治的目的の挫折)に誘導することも可能なはずだ。この将来に対する評価は大きく2つに分けられる。勝算と犠牲の2つだ。
1.勝算を悪化させる(主に戦争の内部事情を考慮した場合)
発生する事態には何通りものパターンがあるだろう。蓋然性の高いパターンは何か。どのパターンが将来発生すると敵に「勝てそうにない」と判断させることができるか。その具体的方法についての考察。8編5章をもとにした上の図ではどのパターンが発生する蓋然性が高いか判断できる場合だ。
下の表のうち、政治的関係を変化させる方法に対する評価はとても高いものとなっている。
2.政治的目的と払うべき犠牲とのバランスの悪化(犠牲=数量+持続時間)
8編5章をもとにした上の図では、どのパターンが発生する蓋然性が高いか判断できない場合にあたる。この場合、政治的目的をどう評価するかが重要だ。現実の戦争では将来を推測できない場合が多いだろう。講和に向かう動機としてはこちらのほうが一般的なものだ。1編2章で考察されている戦争の目標は、あくまで一般論としてという但し書きが付けられている。そしてその目標はどちらかというと攻撃的な方向(積極的意図)のものが多い。しかし、この部分で戦争論でも重要な防御の考察が行われる。ポイントは闘争の持続時間と防御の関係だ。
純粋な抵抗でも敵の政治的目的を挫折させるために、戦闘力を使用することが含まれている。
次回は戦争の手段に関してです。]]>
『戦争論』-8編5章・・・戦争の目標に関する見取り図
http://uj12304567.exblog.jp/11228352/
2010-09-03T22:45:00+09:00
2010-09-29T05:22:07+09:00
2010-09-03T22:45:10+09:00
Naotaka_Uzawa
クラウゼヴィッツ:戦争論読解
今回は少し寄り道して、8編5章です。
この章では、国運が衰退していく小国がどのような戦争の目標を持つべきかが考察されている。注意点は、戦争の目標が制約されている場合の考察では敵国と自国の戦力バランスを考慮して攻撃・防御を決定するわけではないという部分だ。
将来が見通せる場合には国運の悪化している小国、見通せない場合でも大国と利害が衝突している小国が想定されている。現在の日本をこの立場にあると想定して読んでみるのもいいはずだ。
攻撃か防御かを決定するのは戦力のバランスではなく将来に対する評価であり、将来が見通せる場合はチャンスが巡ってくるか、見通せない場合は政治的目的の評価が判断の分かれ道となっている。
国運が悪化していく国家の前途はまさに多難だ。フリードリッヒ大王(3編6章)は国の滅亡一歩手前まで追い込まれたわけだし、古代ではマケドニアに追い込まれていたアテネにおいてデモステネスが同盟結成までは行ったもののカイロネイアの戦いで敗れている。これは8編7章における話だが、「制約された目標」における攻撃、つまり「敵国土の部分的占領」には多くの困難があるというのがクラウゼヴィッツの評価だと思う(8編7章,7編4章,7編5章,7編-勝利の最高点について)。そういった意味でそれを乗り切ったフリードリッヒ大王に対するクラウゼヴィッツの評価は非常に高いといえるだろう。
8編の戦争目標の考察の大枠を示している点でこの5章は有益だ。
■「戦力のバランス」が攻撃・防御の選択基準にならない理由について
この8編5章における「戦力のバランス」の扱い方はなかなか分かりづらい。読んでいて微妙な感覚になる人も多いのではないだろうか?実は1編2章においても同じ内容が登場する。ここでは上の表も使いながら自分なりの理解を書いておきたい。
(表から)
攻撃か防御かの判断の流れを示した上の表において、まず現れるのは物理的・精神的優位がどちらにあるかの評価だ。しかし、自国の立場は優位ではないと判断した場合でも、積極的精神・冒険を実行する性向が強ければ敵を完全に倒そうとする戦争に発展する可能性がある。つまり小国においてもこの種の戦争を引き起こす可能性がある。
(概念上の戦争の前提から)
再び、概念上の戦争の前提からいくつか取り上げてみよう。
(2)戦闘力、能力など互いの様々な条件を同じにする (1編2章)
(3)両者とも戦争の完全性(=敵の抵抗力の完全な破壊)を追い求め、能力もある (1編1章2,6節,2編5章→7節で否定)
(4)相手の持つ抵抗力をしっかりと把握できる (1編1章5節→10,18節,1編2章は現実の戦争、8編5章)
条件を少し変えてみよう。(4)はそのまま固定し、(2)と(3)の条件を変更する。このとき、明白な力の差があり精神的な力でも穴埋めが出来ないならば概念上は戦争など選択しないだろう。しかし現実には明白な差があり不利なのに戦争を選択し、さらに攻撃という闘争形式を選択する場合がある(1編2章を参考に)。よって戦力のバランスが攻撃・防御の選択基準の核心ではない、ということになるだろう。]]>
『戦争論』:1章1編-「現実の戦争」の2つの方向性
http://uj12304567.exblog.jp/11196505/
2010-08-28T16:19:00+09:00
2010-08-30T22:56:26+09:00
2010-08-28T16:19:37+09:00
Naotaka_Uzawa
クラウゼヴィッツ:戦争論読解
『戦争論』では、概念上の戦争と現実の戦争の区別をしっかりとつけることが大切だ。ただ、付け加えておきたいのは読み進めるにあたって現実の戦争をさらに2つに分けて読んでいくと理解しやすいと思われる。
(1)概念上の戦争に激しさが近づいていく「現実の戦争」
(2)概念上の戦争の激しさからは程遠い「現実の戦争」
この2つだ。
ここで迷いやすいのは、ナポレオンによる戦争をどのように扱うかだ。クラウゼヴィッツは8編2章においてナポレオンが行った戦争を「概念上の戦争」が完全に現れたものだとしている。その一方、それはやはり現実の戦争だとしている。これについては、1編1章6節・1編2章において概念はあくまで概念であり現実ではないと書いていることから、やはりナポレオンによる戦争も現実の戦争だとみなすべきだろう。
ここでもう一度「概念上の戦争」がどのように出てきたかを見てみよう。それはクラウゼヴィッツが実際に経験したナポレオン戦争やフリードリヒ大王による戦争など戦史から読み取った戦争の本質だった。
(1)概念上の戦争に激しさが近づいていく「現実の戦争」の拡張
仮に読み取った概念はそのまま固定しておくことにする。それはとにかく極限の世界だった。一方、現実の戦争はクラウゼヴィッツの死後も行われており現実の戦争の「経験」はその後も続いているわけだ。つまり、クラウゼヴィッツの時代の経験ではナポレオン戦争が最も激しいものだったにせよ、私たちはその後も様々な戦争が発生しているのを知っているわけだから、『戦争論』を読む際は、意識的に「現実の戦争」における激しさの幅をクラウゼヴィッツの認識より広げて読んでいくのが良いのだと思う。
「現実の戦争」はあくまで経験から知られるものであり、戦史から読み取るものだ(2編2章37節,2編6章)。クラウゼヴィッツの著作で考える場合、以後の戦争を『戦争論』の考察対象からはずすのはおかしいだろう。
(2)概念上の戦争の激しさからは程遠い「現実の戦争」
一方、概念上の戦争の激しさからは程遠い「現実の戦争」についてはクラウゼヴィッツが認識していたもので現在も十分読み進めていけるはずだ。]]>
「概念上の戦争」から将来を予想することについて
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2010-08-27T22:41:00+09:00
2010-08-28T12:43:29+09:00
2010-08-27T22:41:47+09:00
Naotaka_Uzawa
クラウゼヴィッツ:戦争論読解
1編1章6節、8編6章Bにおいてクラウゼヴィッツは「概念」から現実世界の予想をすることについて非常に厳しく批判している。「それは常に極限状態に備えようという話になり、無駄な力を使ってしまう。こんな馬鹿げた話はないだろう。実際には、相手を探りある程度の蓋然性をもとにして自分の行動を決定することになる」、という分析だ。
概念から将来を予想することについてなぜクラウゼヴィッツはこれほどの警告をしているのだろうか?なにかこの当時の風潮にそういう流れがあったのだろうか。
とても疑問だった。
それについて、『西洋哲学史』にそのような流れがあったのかもしれないと思える話があった。哲学の話ではよく出てくる決定論の話だ。
「全ての真である命題の概念を検討し次のことがわかった。必然的・偶然的どちらにせよ、過去・現在・未来のものであれ、すべての述語は主語の概念の中に含まれている。ここから次の結論が出てくる。実体の中には、これから起こる全ての痕跡がある。」(『西洋哲学史』、11章「ライプニッツの形而上学に関する書簡」、587pを参考に)
この話は、自然や物質だけではなく、人もその範囲に入っている議論だ。
つまり、戦争(主語)に含まれている様々な要素(述語)を全て列挙できれば、将来を予想できる。しかも、「概念上の戦争」における必然的な戦争の推移だけでなく、偶然が入り込む「現実の戦争」についても可能だ、ということになるだろう。
ライプニッツは、1646年から1716年までの人だ。後には弟子のヴォルフ(1679-1754)がその予定調和説を受け継いでいる。
ヴォルフが活躍していた時代、彼に嫉妬した人がフリードリヒ・ウィルヘルム1世に予定調和説を歪めて伝えたという説もあるそうだ。いわく、「兵隊が脱走しても宿命がそうさせたので、兵を罰することは不当である」。ヴォルフはヴィルヘルム1世に命令で教授職を追われた。(Wikipedia-クリスティアン・ヴォルフ)
プロイセンの軍の中ではこの出来事による記憶のようなものがあったのかもしれない。
決定論というのも戦争という具体的なものと合わせ突き詰めて考えるとなかなか容認しがたいものだ。原因と結果もここまで極限まで押し進めると変なものに見えてくるものだ。ただ、こういう考え方が微分・積分を生み出した方面に目を向けると無益ではないと思える。]]>
『戦争論』:1編1章-現実の戦争・・・戦争発生前の状態(案)
http://uj12304567.exblog.jp/11160063/
2010-08-21T01:32:00+09:00
2010-08-28T20:43:49+09:00
2010-08-21T01:32:04+09:00
Naotaka_Uzawa
クラウゼヴィッツ:戦争論読解
前回までは、戦争論の至る所で登場する概念上の戦争についてまとめておいた。「概念上の戦争」にはいくつかの前提があり、それは必要に応じて否定され「現実の戦争」が考察されていく。今回は前提のうち(1)、(5)、(7)を再び取り上げてみよう。
(1)抽象的なもの同士が戦う (1編1章7節→同節,2編5章で否定)
(5)戦争前の状態や様々な関係を無視し、戦争を突然起こることと考える (1編1章6節→7節で否定)
(7)今戦っている戦争が終結した後、どうなるかを考えない (1編1章6節→9節、8編4章で否定,2編5章のモスクワ侵攻の考察を参照)
当然のことながら、「現実の戦争」では抽象的なもの同士が戦うわけではない。また、戦争前の様々な事柄を考慮しなければならず、戦後自分たちが置かれる状況も考慮しなければならないものだ。
図は戦争論の考察対象を大まかに示すために1編1章を参考に作成したものだ。「敵対している利害関係」を処理する方法は「政治的行動・行為」である。利害関係が続く間は政治的交渉は続くものと考えなければならないだろう。戦争を選択した場合は政治的交渉とは言わないのが慣例だが、それはどうだろうか?ペンや言葉を使おうとも、兵器を使おうとも同じ利害関係を処理していると考えなければならない。つまり、戦争という手段で政治的交渉を続けていると考えなければならない。戦争も外交も利害関係をどのように処理するかという政治的目的を達成するための同じ手段なのだ。(1編1章24節、8編6章B)
クラウゼヴィッツは、戦争を宣戦布告から講和条約締結までというきっちりとした範囲に限定しているようにも見える(1編2章、8編6章B)。しかし、戦争論における現実の戦争には2つの異なる方向性が想定されているということに注意して欲しい。2つの異なる方向性とは「概念上の戦争」に激しさが近づくものと遠ざかっていくものの2つなのだが、注目して欲しいのは遠ざかっていくものの例として、武装中立、交渉支援のための威嚇、有利な状態を得るための試み(3編16章)も戦争の範囲の中に含められている部分だ。つまり、理論が非常に分かりづらくなるのを認めながらも、宣戦布告から講和締結という形の戦争以外も「現実の戦争」とされているということだ(8編6章A)。
武装中立を選択する場合、交戦している両者に領域を使用させてはならないため、戦っている両者が領域を侵犯した場合は両者を軍事的手段によって排除しなければならない。また、交渉支援のための威嚇、有利な状態を得るための試みでは戦争と外交が同時に行われている場合も想定されていると考えるべきだろう。
つまり、「敵対している利害関係」が存在している限り、広い意味での戦争は既に発生していると捉えなければならず、ペン・言葉と兵器のどちらが目立っているかは利害関係の重要度やどのくらいの期間続くのかによって戦争には多くの形があるのと同じように様々だということだ。(1編1章3,25-28節)
上記のように、「現実の戦争」は利害関係を中心とした非常に幅広い状態を指すものであった。武装中立や交渉支援のための威嚇、相手を牽制するための合同軍事演習のようなものも「現実の戦争」に含まれ、そこでは外交も同時に行われていることが想定されている場合もあることを見てきた。
さて、上記のような利害関係やそれを処理する政治的目的、軍事的な計画などを戦争を考える場合どのように位置付ければいいだろうか?それについて戦争論では「敵対している利害関係」を引き起こした国際関係や国家内部の社会状態を戦闘が前提とされている様々な軍事行動にとって既に与えられた条件として考えると書かれている(1編1章3節、1編2章)。
そして国内における政治勢力の関係・状況、国際関係(あるいは集団同士の関係)、敵対している利害関係から生まれる動機などから戦争がどのような性質のものになるのか、つまり概念上の戦争に近づくものなのかそれとも遠ざかるものなのか、つかんでおく必要がある(1編1章27、8編3章A)。
「与えられた条件と考える」という部分で1つ注意点がある。それはその条件自体も変化していくというものだ。
利害関係をどう処理するか決める当初の政治的目的が最も重要だが、利害関係というものはある程度続くものであり、その間に国際関係や国家内部の社会状態が変化するため、一旦戦争が始まっても変化する可能性がある。その変化をどう処理するかは政治の重要な役目だ。利害関係をどう処理するか決定する政治が軍事行動を外交と同じようにコントロールしている。(1編1章23)
次回は、「現実の戦争」の2つの方向性についてまとめてみます。
●軍事行動には、戦闘力の養成、維持、使用が含まれます。闘争を前提とした全ての行動です。(1編2章、2編1章)
→ただし、戦争論の考察対象の中心は「戦闘力の使用」とそれに深い影響を与える「戦闘力の維持」になります。
●外交官の行動方法を考察しているものではない。(外交官と戦争の関係は3編17章参照)
●言葉は、使い方を変えれば即座にニュアンスの変化を何となく把握できるものだが、軍事行動ではあまり感じることができないだろう。目の前で見れたとしたら、そこでは昨日までと同じように物資や人が移動していることしか観察できないはずだ。
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『戦争論』 : 概念上の戦争-限度のない戦争の激しさ
http://uj12304567.exblog.jp/11125869/
2010-08-13T23:39:00+09:00
2010-08-14T00:51:30+09:00
2010-08-13T23:39:49+09:00
Naotaka_Uzawa
クラウゼヴィッツ:戦争論読解
【1.戦争の手段から考える】(1編1章3)
戦争の手段は物理的な力であり、これを使い暴力を行使することだった。概念上の戦争ではそれ以前の国家間の関係や状態を無視し、すでに戦争が始まっているという前提がある。そのため暴力の行使以外の手段は失われている。戦闘は1度きりであり、お互い抵抗力を完全に奪う能力があるため負ければ完全に無防備状態となる。そのため片方が暴力を行使すればもう片方も暴力で対抗するしかないわけだ。この連鎖は際限もなく続く。戦争の規模・激しさに限度がなくどんどんエスカレートしていくことになる。今戦っている戦争が終結した後、どうなるかを考えることなどしないからだ。
【2.戦争の目標から考える】(1編1章4)
概念上の戦争の目標は、敵の抵抗力を完全に破壊することだった。そうすれば自分たちの意志を相手に押し付けようとするとき相手は抵抗できないため言うことを聞くしかない。戦争はすでに始まっている。自分たちが敵の抵抗力を完全に破壊しなければ、こちらが負けてしまう。決戦のチャンスは1度しかないからだ。敵も同じように考えている。戦争の規模・激しさに限度がなくどんどんエスカレートしていくことになる。今戦っている戦争が終結した後、どうなるかを考えることなどしないからだ。
【3.敵の抵抗力の測定から考える】(1編1章5)
今まで戦争の手段・目標と敵味方の行動の連動の関係を見てきた。順番からすると「敵に自分たちの意志を押し付ける」という政治的な目的について考えなければならないように見える。しかし、「概念上の戦争」では、敵の抵抗力を完全に破壊してしまえば敵に自分たちの意志を押し付けることができる。つまり、政治的な目的は戦争が始まった時点で考えなくてもいいことになる。
それよりも【2】で見た抵抗力についてもう少し詳しく見たほうが「概念上の戦争」を考える上で有効だろう。相手の持つ抵抗力をしっかりと把握できることが前提とされていた。そのため、お互いに敵より優位に立とうと力を発揮する。戦争の規模・激しさに限度がなくどんどんエスカレートしていくことになる。]]>
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