政治哲学
2010年 05月 31日
これはすごい!!!
<18:30~24:10>
ハーバード白熱教室(wikipedia)
1.個人的なリスク
「哲学は私たちを慣れしたんだものから引き離す。新しい情報をもたらすことによってではなく、新しい物の見方を喚起することによって引き離すのだ。しかし、ここにもリスクが有る。慣れ親しんだものが見慣れないものに変わってしまえば、それは2度と同じものにはなり得ない。自己認識とは純真さを失うようなものだ。不安を感じるだろうが私たちは皆そんな思いを経験し、探求を続けてきた。この試みを難しく、しかし面白くしているのは道徳や政治哲学は物語であり、その物語がどこに連れていってくれるかは分からないが、それが自分についての物語であることは分かっている。」
ギリシアの哲学者で、それに気づいて大声で泣いた人はエンペドクレスだったかな・・・エンペドクレスは、もともとはギリシアの伝統に深く根付いた人だったという。それがギリシアの伝統を対象に据え内心では嘲っていた(あるいはそこに至ってしまうことに気付いていた)ピタゴラスの主観に触れた瞬間、エンペドクレスはそれまでギリシアの伝統から祝福されている自分から引き離されてしまったのだと言う。
これは、キリスト教などの文書化され知的に見えるものに憧れを持ち、アニミズム的な宗教を皮肉る知識人に初めて触れた純真な人のようなものだろう。これは今でもよく見ることができる。例えば習俗を守って生きてきた人々を取材し、再び訪問する番組が放送される。再び訪問すると文明的ではないとして服を着せられ(Tシャツ)、それまでの文化を放棄した集団になっていたという内容だ。その人々を見ると、確実に目の輝きを失っているようにも見える。
江戸から明治の初期においても、この対立は非常に深刻なものだった。武士は抵抗を始め、西南戦争などが起きている。しかし、日本のこの問題に対処する方法は、私たち自身の表現で言えば「和洋折衷」というもの。ただ、敗戦後(特に冷戦終結後)はまさに地崩れ的な崩壊を目にしているような気がする。
哲学は伝統的なものを表現すべきなのか、それとも伝統的なものを対象として扱うべきなのか・・・「理性の不安」を批判的に扱う哲学も、そういういえばあった。
2.政治的なリスク
確かに、クラウゼヴィッツを読んで考えているというのは、日本では大きなリスクだ。「悪い市民」として扱われる(かもしれない)。でも続けよう、「ビジネス・スクール」には行かない!(と、いう気持ちで・・・)(笑)
非常に判断が難しい例がどんどん出てきます。映像を見ながら1つ1つ考えてみるといいかもしれません。
一方、日本の首相が公にこの議論を始めて、悩んでいるとしたら・・・アメリカや中国、世界の多くの国は大いにつけこんでくるだろう・・・日本における正義・公正の議論は、実際の政治家に求めるより、情報を伝えるマスコミに求められるべきかもしれません。海外の政府が流す情報を垂れ流すのではなく、それを否定的に伝える情報を同時に伝えたり、「単なる聞き伝えの情報です」と明示すること。敗戦の反省とは主権に関する事実を伝える際に政府の失敗を隠すことに加担していたことであり、決して事実を伝えないことによって平和の雰囲気を作り出すことではないことなど精神的なあり方を要求するべきかもしれませんね。
根本的な反省が、反省を叫ぶ番組の内容とは裏腹に何もなされていないように感じるからです。
個人的には、普遍化と強制がどのような関係なのかとても気になります。
<18:30~24:10>
ハーバード白熱教室(wikipedia)
1.個人的なリスク
「哲学は私たちを慣れしたんだものから引き離す。新しい情報をもたらすことによってではなく、新しい物の見方を喚起することによって引き離すのだ。しかし、ここにもリスクが有る。慣れ親しんだものが見慣れないものに変わってしまえば、それは2度と同じものにはなり得ない。自己認識とは純真さを失うようなものだ。不安を感じるだろうが私たちは皆そんな思いを経験し、探求を続けてきた。この試みを難しく、しかし面白くしているのは道徳や政治哲学は物語であり、その物語がどこに連れていってくれるかは分からないが、それが自分についての物語であることは分かっている。」
ギリシアの哲学者で、それに気づいて大声で泣いた人はエンペドクレスだったかな・・・エンペドクレスは、もともとはギリシアの伝統に深く根付いた人だったという。それがギリシアの伝統を対象に据え内心では嘲っていた(あるいはそこに至ってしまうことに気付いていた)ピタゴラスの主観に触れた瞬間、エンペドクレスはそれまでギリシアの伝統から祝福されている自分から引き離されてしまったのだと言う。
これは、キリスト教などの文書化され知的に見えるものに憧れを持ち、アニミズム的な宗教を皮肉る知識人に初めて触れた純真な人のようなものだろう。これは今でもよく見ることができる。例えば習俗を守って生きてきた人々を取材し、再び訪問する番組が放送される。再び訪問すると文明的ではないとして服を着せられ(Tシャツ)、それまでの文化を放棄した集団になっていたという内容だ。その人々を見ると、確実に目の輝きを失っているようにも見える。
江戸から明治の初期においても、この対立は非常に深刻なものだった。武士は抵抗を始め、西南戦争などが起きている。しかし、日本のこの問題に対処する方法は、私たち自身の表現で言えば「和洋折衷」というもの。ただ、敗戦後(特に冷戦終結後)はまさに地崩れ的な崩壊を目にしているような気がする。
哲学は伝統的なものを表現すべきなのか、それとも伝統的なものを対象として扱うべきなのか・・・「理性の不安」を批判的に扱う哲学も、そういういえばあった。
2.政治的なリスク
確かに、クラウゼヴィッツを読んで考えているというのは、日本では大きなリスクだ。「悪い市民」として扱われる(かもしれない)。でも続けよう、「ビジネス・スクール」には行かない!(と、いう気持ちで・・・)(笑)
非常に判断が難しい例がどんどん出てきます。映像を見ながら1つ1つ考えてみるといいかもしれません。
一方、日本の首相が公にこの議論を始めて、悩んでいるとしたら・・・アメリカや中国、世界の多くの国は大いにつけこんでくるだろう・・・日本における正義・公正の議論は、実際の政治家に求めるより、情報を伝えるマスコミに求められるべきかもしれません。海外の政府が流す情報を垂れ流すのではなく、それを否定的に伝える情報を同時に伝えたり、「単なる聞き伝えの情報です」と明示すること。敗戦の反省とは主権に関する事実を伝える際に政府の失敗を隠すことに加担していたことであり、決して事実を伝えないことによって平和の雰囲気を作り出すことではないことなど精神的なあり方を要求するべきかもしれませんね。
根本的な反省が、反省を叫ぶ番組の内容とは裏腹に何もなされていないように感じるからです。
個人的には、普遍化と強制がどのような関係なのかとても気になります。
by Naotaka_Uzawa
| 2010-05-31 01:00
| 哲学・科学