『プレソクラティクス・初期ギリシア哲学研究』(エドワード・ハッセイ著)
2010年 05月 02日
『プレソクラティクス・初期ギリシア哲学研究』(エドワード・ハッセイ著、日下部吉信 訳)
読書というのは不思議なものです。2年ぶりにまた読もうとしていたら、4月15日に日下部吉信氏の新しい訳本が発売されていました。日下部氏の著作は大学時代から踏ん張りながら読んでいて、『初期ギリシア自然哲学者断片集』の時はちんぷんかんぷんでしたが、次の『ギリシア哲学と主観性』を何度か読んでなんとなく分かるようになりました。
ギリシアの深層心理(自然)は、ホメロスの『オデュッセイア』、『イリアス』に凝縮されています。私は辞書を引きながら四苦八苦で読んだ(ギリシア語ではなくて訳の漢字が難しい)のですが、アテナイ人はこれを暗誦していたというから驚きです。
休みの間は他の本を読むつもりなのでまだ買っていませんが読んでみようと思っています。
今日は、『ギリシア哲学と主観性』の中から、クセノパネスの章を読みました。クセノパネスは若いころから放浪の身で、ホメロスをこき下ろす話を聴かせながら生計を立てていたようです。
クセノパネスは、多神教のギリシアの中にあって、神様は1つ(1「人」ではないところがミソ)だと言った人です。断片集だけを読んでいると、今で言うユダヤ教、キリスト教、イスラム教みたいなものかと思ってしまいますが、『ギリシア哲学と主観性』を読むとちょっとそれとは違うようです。他者を攻撃するような恨みのようなものがなく、まるで「ツルツルとした何か」という感覚になります。
まるで国際政治学のネオリアリストたちが唱える国家の内部を無視した構造理論のような感覚だと思ってしまうのは私だけでしょうか。ビリヤードの玉のような感覚です。
この本の著者は、ギリシアの深層心理から離れてクセノパネスがこのような話をできたのは、故郷を持たないことが原因だと書いています。
ここから連想するのは、日本の都市化、地方の過疎化です。テレビでは盛んに「人間味」、「人情」、「田舎のぬくもり」を言い立てますが実際はまったく違います。農家に嫁いだ女性は、その土地の習慣に四苦八苦し、それを嫌がり都市に向かいます。(経済的な要因も大きいとは思いますが。)農業に携わる人を増やすには、より具体的に心理的な要因に対する対策を講じる必要があるでしょう。「人情」を非常に強調する人は、ある意味で聞く人を「反対はできないよな!」というふうに脅しているようなものです。
都市では、昔からの因習から解放され、その中から神話ではないより合理的な考えが生まれてきます。
この本を読んでいると、
①昔からの土地での生活・・・自然、深層心理
②故郷喪失・・・合理的な考え方の発生
というふうにまとめられているようです。
中国では、戦乱によってかなりの割合の人たちが、そもそも故郷なんてない人たちだったなんて話も聞きます。春秋戦国時代にギリシアと同じような哲学が発生した原因もこの「故郷喪失」という考えから説明できるのかもしれませんね。
それにしても西洋形而上学に対する批判が激しい考え方です。それについては、この意味ではこの本もイデオロギーの書であることを認めると書いてありました。
ギリシアの今の状態は、自分を見失った人たちが陥る当然の状況なのでしょうか?日本の財政もそろそろ破綻一歩手前だというのに、それを正直に国民に語りかける政治家がいないのは残念なことです。あまりにも伝統的なものからかけ離れた社会というのは長続きできないものなのかもしれません。
私たちは、アメリカが関与しない日本社会が、今よりずっと厳しいものになることを心の奥底で恐れながらもしっかりと理解しています。(それは責任という点でずっと健全な社会になるとは思いますが。)日本人は、アメリカが体現していると日本人が考えているものに甘えて生きていると考えていいでしょう。
恐らくこの甘えが私たちが自分を見失う原因となったのでは?
読書というのは不思議なものです。2年ぶりにまた読もうとしていたら、4月15日に日下部吉信氏の新しい訳本が発売されていました。日下部氏の著作は大学時代から踏ん張りながら読んでいて、『初期ギリシア自然哲学者断片集』の時はちんぷんかんぷんでしたが、次の『ギリシア哲学と主観性』を何度か読んでなんとなく分かるようになりました。
ギリシアの深層心理(自然)は、ホメロスの『オデュッセイア』、『イリアス』に凝縮されています。私は辞書を引きながら四苦八苦で読んだ(ギリシア語ではなくて訳の漢字が難しい)のですが、アテナイ人はこれを暗誦していたというから驚きです。
休みの間は他の本を読むつもりなのでまだ買っていませんが読んでみようと思っています。
今日は、『ギリシア哲学と主観性』の中から、クセノパネスの章を読みました。クセノパネスは若いころから放浪の身で、ホメロスをこき下ろす話を聴かせながら生計を立てていたようです。
クセノパネスは、多神教のギリシアの中にあって、神様は1つ(1「人」ではないところがミソ)だと言った人です。断片集だけを読んでいると、今で言うユダヤ教、キリスト教、イスラム教みたいなものかと思ってしまいますが、『ギリシア哲学と主観性』を読むとちょっとそれとは違うようです。他者を攻撃するような恨みのようなものがなく、まるで「ツルツルとした何か」という感覚になります。
まるで国際政治学のネオリアリストたちが唱える国家の内部を無視した構造理論のような感覚だと思ってしまうのは私だけでしょうか。ビリヤードの玉のような感覚です。
この本の著者は、ギリシアの深層心理から離れてクセノパネスがこのような話をできたのは、故郷を持たないことが原因だと書いています。
ここから連想するのは、日本の都市化、地方の過疎化です。テレビでは盛んに「人間味」、「人情」、「田舎のぬくもり」を言い立てますが実際はまったく違います。農家に嫁いだ女性は、その土地の習慣に四苦八苦し、それを嫌がり都市に向かいます。(経済的な要因も大きいとは思いますが。)農業に携わる人を増やすには、より具体的に心理的な要因に対する対策を講じる必要があるでしょう。「人情」を非常に強調する人は、ある意味で聞く人を「反対はできないよな!」というふうに脅しているようなものです。
都市では、昔からの因習から解放され、その中から神話ではないより合理的な考えが生まれてきます。
この本を読んでいると、
①昔からの土地での生活・・・自然、深層心理
②故郷喪失・・・合理的な考え方の発生
というふうにまとめられているようです。
中国では、戦乱によってかなりの割合の人たちが、そもそも故郷なんてない人たちだったなんて話も聞きます。春秋戦国時代にギリシアと同じような哲学が発生した原因もこの「故郷喪失」という考えから説明できるのかもしれませんね。
それにしても西洋形而上学に対する批判が激しい考え方です。それについては、この意味ではこの本もイデオロギーの書であることを認めると書いてありました。
ギリシアの今の状態は、自分を見失った人たちが陥る当然の状況なのでしょうか?日本の財政もそろそろ破綻一歩手前だというのに、それを正直に国民に語りかける政治家がいないのは残念なことです。あまりにも伝統的なものからかけ離れた社会というのは長続きできないものなのかもしれません。
私たちは、アメリカが関与しない日本社会が、今よりずっと厳しいものになることを心の奥底で恐れながらもしっかりと理解しています。(それは責任という点でずっと健全な社会になるとは思いますが。)日本人は、アメリカが体現していると日本人が考えているものに甘えて生きていると考えていいでしょう。
恐らくこの甘えが私たちが自分を見失う原因となったのでは?
by Naotaka_Uzawa
| 2010-05-02 00:47
| 哲学・科学